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京都市交響楽団第535回定期演奏会

 ☆京都市交響楽団第535回定期演奏会

  指揮:広上 淳一
  独奏:ボリス・ベルキン(ヴァイオリン)

  会場:京都コンサートホール大ホール
  座席:2階P-4列32番(休憩前)、3階LB-2列4番(休憩後)


 私事で恐縮だが、ってここの文章そのものが私事だけれど、シューマンの交響曲第3番「ライン」を聴くと、どうしても15年以上前のケルン滞在中のことを思い出してしまう。
 と、言うのも、ケルンがライン河畔の大都市だから、ということももちろんあるが、それより何より、この曲の第5楽章のパパーパーパーパパーパーパーというファンファーレがケルンのフィルハーモニーの開演近くを知らせる音楽として使用されていたからだ。
 で、今日も「ライン」のその箇所を聴きながらケルンに住んでいた頃のことがいろいろと思い出されて、なんとも言えない気持ちになった。

 まあ、それはそれとして。

 今夜は、北山の京都コンサートホールまで、京都市交響楽団の第535回定期演奏会を聴きに行って来た。
 指揮は常任の広上淳一で、シューマンの交響曲第3番「ライン」にチャイコフスキーの幻想曲『フランチェスカ・ダ・リミニ』、ボリス・ベルキンをソロに迎えたブラームスのヴァイオリン協奏曲というプログラム。

 まずは、シューマンの交響曲第3番「ライン」だが、広上さんのプレトークによると、どうやら京都市交響楽団の自主演奏会では、今日が初めての演奏とのこと。
 それが原因ということもあるまいが、同じ広上さんの指揮で聴いた大阪フィルとの演奏(第399回定期演奏会。2006年6月15日)に比べると、あちらのそれいけどんどん調のパワフルなのりに対し、今日の京響はいくぶん重心が低く、細部まで丁寧に腑分けが行われた演奏という印象を持った。
(例えば、第1楽章では、のちのブラームスへの影響がよくわかったりした)
 ライヴ特有の傷もなくはなかったが、一気呵成のフィナーレなど、広上さんらしいドラマティックで爽快な音楽が生み出されていたとも思う。

 休憩を挟んで、二曲目はチャイコフスキーの幻想曲『フランチェスカ・ダ・リミニ』。
 ダンテの神曲中の愛憎もつれて嗚呼無情といったヨーロッパではおなじみのエピソードを音楽化した作品で、これはもうオーケストラの醍醐味を満喫することができた。
 CDなんかで聴くと、どうにもうるさくて心むなしうなることもときにあるのだが、そこは生。
 大団円のくどさもなんのその、オーケストラの全ての楽器が鳴りきる魅力は、やはり何物にも代え難いと痛感した次第。
 抒情的な部分での情感あふれるクラリネットをはじめとした管楽器のソロもなかなか見事で、硬軟・強弱両面で聴き応えのある演奏に仕上がっていた。

 そして、メインのブラームスのヴァイオリン協奏曲。
 ボリス・ベルキンといえば、今から20年以上も前に同じ京都市交響楽団の定期演奏会(第310回。1989年1月27日)でショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲第1番を聴いたことがあるが、確かショスタコーヴィチのけっこう込み入った音楽を鬼気迫る勢いで演奏していたような記憶があるような、ないような。
(同じ日、ショスタコーヴィチの交響曲第15番の第1楽章で、指揮の井上ミッチーがいつもの如く踊り狂っていたことはより鮮明に覚えているのだが)
 今回のブラームスは、そのときに比べると、いくぶん落ち着いたというか、テクニックももちろんだが、それより音色と雰囲気で聴かせるという感じが強かったように思った。
 若干、音が細いように感じられもしたが、カデンツァなどの美しさはやはり印象に残る。
 広上さん指揮の京響は少し粗さを感じる部分がありはしたものの、ボリス・ベルキンのソロに伍して堂々たる演奏を行っていたのではないだろうか。

 いずれにしても、生でオーケストラを聴く愉しみを改めて強く感じたコンサートだった。
by figarok492na | 2010-05-22 00:31 | コンサート記録
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