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遊劇体♯49『多神教』

 今からもう二十年近く前になるか。
 当時僕は、いわゆる学生劇団とはちょっと異なる形でお芝居というものに関係していた。
 そうした中で知り合ったある人(その人は、もういない)から、「泉鏡花の戯曲は、中瀬君向きだと思うな」と薦められた僕は、古い泉鏡花全集の中から戯曲の巻を取り出しては、ちょこちょこと彼の戯曲を読み進めていった。
 正直言って、全てが僕自身の好みにあうというわけではなかったが、泉鏡花という人の気質や特性といったものがよくわかった、ような気がしたことも事実だった。
 そして、そうした中で、特に印象に残ったものの一つが(だから、その後しばらくして『海神別荘』などといっしょに文庫化されたときはそれを買って再読した)、今回遊劇体が泉鏡花のオリジナル戯曲全作品上演シリーズの六作品目としてとり上げた『多神教』だ。

 では、何ゆえ『多神教』が僕にとって強く印象に残る作品であったかといえば。
 それは、明日明後日までの遊劇体の公演を観ていただくか、原作(テキスト)をお読みいただくかすればわかるのでは…。
 というのでは、ちょっと不親切に過ぎるだろうか。
 あらすじは公演のチラシや他の方のブログに書かれてあるので省略するけれど、この『多神教』が、つまるところ泉鏡花の、フェミニスト性という言葉だけでは表わしきれない女性に対する強い想いや俗物性への諷刺、国家神道への痛烈(痛快)な批判やそれと表裏の関係にあるアニミズム的な感覚がストレートに表現されている作品だからである。
 しかも、そうした様々な要素が、お芝居の骨法にきちんとのっとって、わかりやすく示されている点も面白いし、ナンセンスでシュールな「仕掛け」も刺激的だ。
(だから、この作品がずっと上演されてこなかったことが不思議でもあり、逆になるほどと納得もいく)

 で、演出のキタモトマサヤさんは、そうした『多神教』の核となる部分を、ときに古典芸能の所作やときにこれまでの遊劇体の一連の作品で培ってきた意匠を駆使しつつ、巧みに描き上げていたと思う。
(加えて、昔懐かしい芝居小屋、能楽堂、寄席などを思い起こさせる五條楽園歌舞練場という今回の公演会場の雰囲気がいい)
 また、演者陣も、大熊ねこさん(熱演)をはじめとした遊劇体の面々や、条あけみさん、中田達幸さん、氏田敦さんら客演陣ともども、概してキタモトさんの演出意図と作品の世界観によく沿った演技を行っていたのではないか。
 古風な台詞ゆえ、なじみ辛さを感じたお客さんもあっただろうし、キタモトさんの嗜好と僕自身のそれとの違いを感じた箇所もいくつかありはしたのだが、個人的には大いに満足のいく公演だった。
 本当に観ておいてよかった。

 そうそう、これはいつもの「ラッパ」程度に受け止めておいて欲しいのだけれど。
 京都小劇場の男性の劇作家や演出家陣の中で、もっともフェミニスト的性質を持った人(一人)は、キタモトさんなのではないかと僕は思う。
 たぶんそうでなければ、この『多神教』をはじめとした泉鏡花の作品に惹かれ、実際に全戯曲を上演しようとは考えないはずだから。
 そして、そういった思い込みもあって、僕はキタモトさんと遊劇体の面々による『日本橋』を今から心待ちにしているのである
(「ほら、泉鏡花はやっぱり中瀬君向きだ」というあの人の声が聴こえてきそうだ)
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by figarok492na | 2010-05-23 19:04 | 観劇記録
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