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花は花でもお江戸の花だ(文章の訓練)

☆花は花でもお江戸の花だ 弦太郎八番勝負より(文章の訓練)


 鵜野部左文字町を抜けて西厳寺の前を通り、刈沢の材木置き場に来たところで、矢沢弦太郎はやはりなと思った。
 振り返れば、すぐに気付かれる。
 弦太郎は何気ない調子で下駄の鼻緒を直すふりをすると、一目散に駆け出した。
 たったったったっ、と弦太郎を追い掛ける足音がする。
 脚力には相当自身のある弦太郎だったが、向こうもなかなかの走りっぷりのようだった。
 仕方ない、ここは荒業を使うか、と二ツ木橋のちょうど真ん中辺りで、弦太郎はえいやとばかり水の中に飛び込んだ。

「無茶ですよ、弦さんも」
 ありったけの布団やら何やらを頭の上から押し被せたおもんが、甘酒の入った湯呑みを弦太郎に手渡した。
「春ったって、花はまだ三分咲き。風邪でもひいたらどうするんです。あたしゃ、殿様に合わせる顔がありませんよ」
「そうやいのやいのと言われたら、それこそ頭が痛くなってくる」
 弦太郎はふうふうと二、三度息を吹きかけてから甘酒を啜った。
 甘酒の暖かさと甘さが、芯から冷え切った弦太郎の身体をゆっくりと解き解していく。
「で、誰なんですよ」
「そいつはまだわからねえ。ただ」
「ただ」
「髭田の山がな」
「髭田の山って、それじゃ白翁の」

 前の側用人高遠摂津守頼房は齢六十にして職を辞すると、隠居所と称する髭田の小ぶりな屋敷に居を移し、自ら白翁を号した。
 だが、髭田の屋敷には、幕閣や大商人たち、それに連なる者たちが、白翁の威をなんとしてでも借りんものと連日足を運んでいた。
 世にいう、髭田詣である。

「流石は掃部頭の息子よの」
 西海屋より献上された李朝の壺のすべすべとした手触りを愉しみながら、白翁は微笑んだ。
「御前、如何いたしましょう」
「慌てることはない、様子を見るのじゃ。急いては事を仕損じるというではないか」
「はっ」
 白翁の言葉に頷くや否や、目の前の男はすぐさまその場を後にした。
 白翁は、なおも白磁の壺を撫で続けた。
by figarok492na | 2016-04-06 10:54 | 創作に関して
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