朱雀経康は早百合にとって初めての恋人だった。
同じサークルの緑に紹介されたのがきっかけで、経康は学習院の文学部に通っていた。 彼って、元侯爵家の次男坊なの。 と、緑が耳元で囁いたが、確かに長身で色白、人懐こい表情は元華族の家柄に相応しかった。 最初のデートがサントリーホールでのコンサートというのも、また非常にそれらしかった。 早百合がチケットのことを気にすると経康は、叔父が新聞社の芸術部門担当だから、と言って微笑んだ。 地元にいた頃、早百合にクラシック音楽に触れる機会がなかったわけではない。 それどころか、早百合の実家が援助して建設された市民会館で行われるコンサートには、両親ともどもよく足を運んだものだ。 そういえば、音楽の道に進んで今ではNHK交響楽団のフルート奏者をやっている従妹の鈴世は、何かのコンクールの本選まで進んだとき、審査員を務めていた音楽評論家で横溝正史の長男の亮一氏に、「私、犬神家の一族です」と声をかけて面喰われたと言っていた。 そういう性格だからこそ、臆せず戌神の姓を名乗っていられるのだろう。 ただ、囹圄の人であった祖父を一生庇い続けた祖母の人柄もあってか、早百合の実家は質素質実を旨ともしていた。 だから、サントリーホールの煌びやかな内装の中で、シャンパンでも飲みますか、と経康に訊かれたときは、まだ未成年ですから、と早百合は慌てて手を横に振った。 そんな早百合の言葉と仕草に、早百合さんは面白い人ですね、と経康は再び微笑んだ。 その日は、レナード・バーンスタインが自作の『ウェストサイド・ストーリー』を指揮するのを早百合は愉しみにしていたのだけれど、バーンスタインは見るからに体調が悪そうで、その曲に限って、彼の弟子という日本人の青年がタクトを執った。 会場からは、失望と怒りの入り混じった声も聞かれたが、コンサートのあとに入った喫茶店でも、経康はそのことに一切触れようとはしなかった。 ただ、 「最初に演奏されたブリテンの『ピーター・グライムズ』にしても、『ウェストサイド・ストーリー』にしても悲劇ですよね。概してフィクションというものは、バッドエンドはバッドエンド、ハッピーエンドはハッピーエンドで閉じられてしまいがちなんだけど。僕は、どうしてもその先のことを考えてしまうんですよ。悲劇のあと、喜劇のあとに取り残された登場人物たちのことを」 という経康の言葉を、早百合は今でも覚えている。 それから、経康に誘われて何度かデートをし、彼の自宅を訪ねたこともあった。 経康だけではなく、元外交官の彼の父親も、私だって平民の家の出なんだからと笑う彼の母親も、思っていた以上に気さくな人たちだったのだが、屋敷の中にある弁財天の社が、中高とクリスチャン系の女子校に通った早百合には、どうにも禍々しくて仕方なかった。 あれだけは、潰せなくってね。 早百合の僅かな表情の変化に気付いたのだろう、経康の父は申し訳なさそうにそう言うと、パイプの煙を燻らせた。 結局、世界の違いが大きかったのか、一年半ほどして二人はどちらからともなく疎遠となってしまった。 早百合と経康は清い関係のままだった。
by figarok492na
| 2016-04-07 10:14
| 創作に関して
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