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バスに乗り遅れろ 5

 京都芸術センターの舞台芸術賞をはじめとする、芸術的シンパシーや芸術的相互理解を隠れ蓑とした、太田省吾、松田正隆さん、森山直人、太田耕人らの癒着構造(ありていにいえば、京都造形芸術大学に関連する人間が京都演劇界の「政治的」地位を占める構造)の形成は、青年団から独立した三浦基が京都に拠点を移したことと、同じく青年団の田嶋結菜さんが京都芸術センターの演劇担当のコーディネーターに就任したことで、一つの頂点に達したと、僕は思う。

 CLACLA日記ではいくぶん辛らつに評したものの、三浦基の演劇的な存在意義に関しては、僕も大きく認めるところだ。
 特に、チェーホフや鈴江俊郎さん、松田正隆さんの作品において観せた、作品構造そのものに対する批判的・批評的演出は、演劇に通じる者に小さからぬ刺激と示唆を与えたと言ってよい。
 これまで当為として行われてきた舞台演出への「アンチテーゼ」としての三浦基の存在は、もっと積極的に評価されるべきだろうし、彼の京都演劇界への本格的進出も、その点からは、喜ぶべきものと僕は考える。

 しかし、あくまでも「アンチテーゼ」は「アンチテーゼ」でしかない。
 「アンチテーゼ」である者が、芸術的にばかりか、「政治的」にも主たる地位を占めようとすれば、そこには自ずと無理が生じる。
 結局、「アンチテーゼ」であった者は、主たる地位を占める代わりに、本来彼彼女らが持っていた、批判精神や批評性*を失うという大きな代償を払うことになるだろう。
 つまり、彼彼女らは、現実的な地位と引き換えに、表現者としての存在意義そのものを失うのだ。
(*テキストに対するそればかりでなく、広義の社会全般に対するそれもである)

 だが、こうした危険は、本来志しの高い表現者であれば、僕などが指摘せずとも、はじめから充分承知しているはずである。
 それがわかっていないように見える段階で、三浦基の志しは、あまり高いものではないと、僕には判断せざるをえない。

 実際、CLACLA日記にも記したことだが、京都芸術センターの玄関口で、我を忘れて女性を叱責する三浦さんの姿には、公私の場所のけじめもつかない*、彼の人格的な稚拙さ、それが言い過ぎならば、コモンセンスの欠落を感じてしまうし、それより何より、「京都芸術センターをよりよくするための公開会議」における、
>(京都芸術センターの使用者の選択等に関する)情報をオープンにする必要はない<
といった趣旨の三浦さんの発言には、たとえそれが芸術的な理由から発したものであると言われたにせよ、こちらの顔から火が出るような気恥ずかしさと、彼の独善性、志しの低さを感じてしまうのである。
(*京都芸術センターは、演劇関係者の専有物ではない。こまばアゴラ劇場などとは違うのだ)

 むろん、表現者の人格(それも一面的な)と表現された結果を同列に並べることはアンフェアでもあるが、一方で、表現された結果は、表現者の思想、思考、理想、理念、人格、識見の象徴であることもまた事実であろう。
 その観点からも、三浦基が何ゆえあのような形での表現活動しかとりえないかが明らかになってくるのではないか。
 ここでは、一つ一つの作品について詳細に触れることはしないけれど、彼が対象とするテキストから「ドラマ」を描き出そうとしないのは、あえて描き出すことを拒否しているのではなく、彼自身「ドラマ」を描き出すことができないからだと、僕には思えてならない。

 いずれにしても、三浦基が現在の状態に固執するかぎり、彼の表現者としてのこれまで以上の成果は、あまり望めないのであるまいか。
 それは、彼本人にとっても、彼とともに表現活動を行う人たちにとっても、さらには京都演劇界にとっても、不幸な出来事となる。
 それが僕には、本当に心配でたまらない。
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by figarok492na | 2005-11-16 12:50 | バスに乗り遅れろ
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