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原節子、アルゲリッチ、モーツァルト、そして上野樹里

 ☆モーツァルト:2台・4手のためのピアノ作品集

  マルタ・アルゲリッチ(ピアノ)
  アレクサンドル・ラビノヴィチ(ピアノ)
  1992、93年、デジタル録音
  <TELDEC>4509-91378-2


 小津安二郎や黒澤明、成瀬巳喜男らの映画から受ける印象とは異なり、原節子という人は実生活では相当姐御肌でさばけた性格の持ち主だったようだ。
 確か、煙草をふかしながら麻雀を打つのが好きだと以前何かで読んだことがあるし、アルコールもけっこういける口だったのではないか。
 それに、『ふんどし医者』か何かの撮影の際には、遅刻常習犯の森繁久弥を叱り飛ばすという一幕もあったという。
 もちろんそれとて仮面の一つと言えないこともないだろうけれど、例えばその雰囲気や存在感の大きさ豊かさに比して、小津作品でも成瀬作品でも黒澤作品でも、演技の上手下手以前に、どこかしっくりこない感じをふと覚えてしまうのは、演じる役柄と原節子の本質との間に、歴然とした齟齬があったからのように僕には思えてならない。
 実際、彼女が小津安二郎の死ととともに、映画界を去っていったのも、ただ年齢がどうしたとか自らの美貌がこうしたといった表面的な問題よりも、自らと演じる役柄の齟齬を補って余りある最高で最大の存在がいなくなってしまったからではないだろうか。

 自らの本質とどう向き合うか、だけではなく、自らの本質と対象との関係をどう切り結んでいくかは、当然役者演技者だけの問題ではない。
 共同作業を主とするか否かの違いはあっても、それは音楽家、演奏家においても大きな問題であり課題であり、高じてそれは重い桎梏にすらなる。
 傍目には得手勝手自分勝手を押し通しているように思われ、現にそうした行動を繰り返している音楽家、演奏家とて、それは同じことだ。
 特に、一対一で作品と向かい合う機会の少なくない器楽奏者、それも豊かで高い才能を持った器楽奏者ほど、そのきらいは大きいのではないか。
 ホロヴィッツ、グールド、リヒテル、ミケランジェリ、近くはポゴレリチ…。
 なんとかとなんとかは紙一重ではないけれど、彼彼女らの追い詰められようあがきようは、極言すれば自業自得とはいえ、やはり鬼気迫るものがある。
 そして、そのことはやれ奔放だなんだと、時にゴシップの種にすらなったマルタ・アルゲリッチにもあてはまる。
 確かに、彼女の演奏はよく言えば自由自在、悪く言うと奔放極まりのない、その人生と基を一にしたものだ。
 けれど、その奔放さは無神経や鈍感さから生まれたものだろうか。
 否、もし彼女が臆面なんて一切ない、ただの無神経で鈍感な人間だったら、一人ピアノと向き合い、ソロで演奏活動を行うことから遠ざかることはなかっただろう。
 そう、彼女もまた何かと向き合ってきた一人なのだ。
 彼女がある時から、コンチェルトや室内楽、そして今回取り上げるようなデュオのみで演奏活動を行うようになったこともその帰結以外のなにものでもない。
(僕は、ケルン滞在中に一度だけ彼女の実演に接したことがある。その時は、アルミン・ジョルダンの指揮したスイス・ロマンド管弦楽団をバックにバルトークのピアノ協奏曲を演奏していたが、アルゲリッチの愉しそうなこと。演奏の素晴らしさばかりでなく、彼女の「いっしょに」音楽することの喜びもはっきりと伝わってきて、僕も本当に愉しかった。そういえば、自分の出番が終わったあとも、アルゲリッチは客席に座って嬉しそうにオーケストラの演奏を聴いていたっけ)

 アレクサンドル・ラビノヴィチと組んで録音したこのモーツァルトの2台・4手のためのピアノ作品集も、アルゲリッチの愉しくって嬉しくって仕方のない心情がストレートに表された一枚だと僕は思う。
 正直、形式だとか様式だとか、演奏の整い具合だとか、そういうことばかりを言い出すと、突っ込みどころはいくらでもあるような気がするが、愉しくって嬉しくって仕方がないというモーツァルトの音楽の本質、全部ではないだろけどその大きな側面がよくとらえられていることも疑いようのない事実だろう。
(だから、モーツァルト自身がこの演奏を聴いたら、負けてはならじとアルゲリッチに「勝負」を挑むんじゃなかろうか。どうもそんな気がしてならない)
 中でも、『のだめカンタービレ!』で一躍有名になった冒頭の2台のためのソナタ(てか、原作者の二ノ宮知子はアルゲリッチの演奏を聴いてたんじゃないか? のだめを描くときに)もそうだし、ケルビーノの「恋とはどんなものかしら」そっくりの音型が第1楽章に顔を出すラストの4手のためのソナタなど、その極だ。
 と、言うことで、演奏するという行為を楽譜を撫でなぞることとしか受けとめられない人以外には、強くお薦めしたい一枚。
 むろん、のだめにはまった人にも大推薦だ。

 そうそう、のだめといえば、どうしても上野樹里を思い出してしまうが、彼女もまたどこかで向き合い続けている一人なんじゃないだろうか。
 もしそうでなければ、『ラストフレンズ』のあの演技は生まれなかったはずだから。
 そして、21世紀の日本に小津安二郎や成瀬巳喜男はいないけれど、上野樹里の魅力を十二分に発揮させうる映画監督は、必ず存在すると僕は思いたい。
by figarok492na | 2009-01-22 16:39 | CDレビュー
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