カテゴリ:欧州音楽日記( 24 )

1994年3月2日(欧州音楽日記24・最終回)

 ☆ヴェルディ:歌劇『リゴレット』公演

  指揮:ミケランジェロ・ヴェルトリ
  会場:ケルン市立歌劇場


 楽しみにしていたケルン市立歌劇場の『リゴレット』の公演を観に行ったが、うーん。
 一言で言うならば、「期待外れ」。
 多くを望み過ぎたのか?

 指揮は、『トスカ』で聴いたミケランジェロ・ヴェルトリ*1。
 今日のオーケストラはそれほど締まって聴こえなかった。
 ただし、大きなミス自体はなかったよう。
 演出は、アウグスト・エヴァーディング。
 ドイツでは有名な演出家の一人。
 トラディショナルではないが、奇をてらったものでもない。
 天井に向かって大きな鏡が斜めに据えられているので、舞台の人々の姿が反射して映し出されるという形になっているのが興味深いが、すでにハンブルクの『ラ・トラヴィアータ』も同様の趣向ではなかったかしら*2。

 ヴェルディの音楽自体は素晴らしい。
 第1幕のモンテローネの「呪い」、第2幕のジルダのアリア、男性陣の合唱、第3幕第1場のリゴレットのアリア、そして、女心の歌、四重唱、嵐の場面。
 ユゴーの作品が「政治的」な色彩の濃いものとすれば、ヴェルディは、それとともに人間の「運命」劇としての側面も強調したものと言えるだろう*3。

 で、このヴェルディ中期の傑作を演ずる歌い手や如何?
 残念ながら、どうも感心しなかった。
 まず、タイトルロールのバリー・アンダースン。声が重いのは悪くないとして、ところどころ枯れたりするのは?
 歌い方はがさつに歌っているわけではないのだが、何か深みが足りないと思った。
 身体にハンデキャップを持ちつつ、他者を笑わせなければならないリゴレット自身の人生と、ジルダという最愛の娘をけがされた父親の怒りを表わすには、もっと役柄への理解が必要なのではないだろうか?*4
 ジルダのヴァドヴァ。コロラトゥーラの技巧はクリアしていたし、第2幕のアリアなど大変だろうが、出だしが不安定なのが少し気になった。それと、声質自体、まだ厚みがないというか、音量の幅が狭い感じで好きになれない*5。
 マントヴァ公は、Namiro(もしくは、Ramiro)*6。小林一男を思い出した。高いところを出すのが大変で、ドミンゴやパヴァロッティの声を期待するのが間違いなんだろうけれど。
 スパラフチレのカンは、リゴレットが重いせいもあってか少し軽め。
 他も、あまりよい出来とは言えず。
 まあ、仕方ない*7。



*1:1993年11月14日のケルン市立歌劇場における公演。

*2:明らかに、吉田秀和の影響。

*3:ヴェルディの「政治性」、さらには『リゴレット』上演にまつわるエピソードを承知した上で、僕はやはりこう思う。

*4:偉そうな物言いだ。この頃からこういう感じ方考え方書き方をしていたのか…。

*5:本当に声の好みのストライクゾーンが狭いな、僕は。

*6:公演プログラムと、歌劇場に張り出されるキャスト表とで記載が異なっていたのだ。プログラムとキャスト表とを見比べていたおばさんと笑いながら話をした記憶がある。もしかしたら、ナクソスのオペラ録音に参加しているヨルディ・ラミーロだったかもしれない。

*7:結局これがヨーロッパ滞在時最後のオペラ(コンサート)となった。まあ、仕方ない。
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by figarok492na | 2009-09-14 13:09 | 欧州音楽日記

1994年2月25日(欧州音楽日記23)

 ☆ケルンWDR交響楽団定期演奏会

  指揮:ネーメ・ヤルヴィ
  会場:ケルン・フィルハーモニー


 ケルンWDR交響楽団の定期演奏会をシュテー(立ち見)で購入し、いつもの如く前方の席に移動して聴く。
 ヤマハの寺田さんとお会いし、いろいろとうかがう。

 さて、コンサートのほう。
 指揮は、エストニア出身でエーテボリ交響楽団やロイヤル・スコティシュ・ナショナル管弦楽団とのCD録音で一躍有名になったネーメ・ヤルヴィ。
 出て来たときには、「ジリノフスキーの登場か?」*1と思った。
 と、これは冗談。

 プログラムは、前半がリヒャルト・シュトラウスで、後半がベートーヴェンの7番のシンフォニー。
 第一曲目は、祝典前奏曲。
 オルガン独奏に加え、客席側後方にトランペット群を置いた壮麗華美な作品。
 リヒャルト・シュトラウスのオーケストレーションの巧みさを示す一曲だし、WDRのオケもよく鳴っていたが、なんだか早書きというか、手際のよさが目立つというか。
 加山雄三ショー、のような大げさななんとかショーのテーマ曲みたいで…。
 次は、ウーラントの詩による、独唱と合唱と管弦楽のための吟唱歌人タイユフェop.52。
 合唱の力強さがひと際目立つ作品。
 独唱は、テノールのスヴェンセンとバリトンのヘルマンはワーグナー風。
 ソプラノのバンゼは、あまり好感の持てない声*2。
 ただ、このホールの前のほうは、歌い手の声がうまく響かない(というか、地の声で聴こえる)ことも大きいのかもしれないが。

 後半のベートーヴェンは、ファースト・ヴァイオリン12…コントラバス8という大きい編成。
 演奏のほうは、アーノンクールやノリントンのような「過激」な解釈ではなかったが、古臭いという感じがするものでもない。
 テンポは速めで、第1楽章の再現部や、曲の終わりなど、聴いていて興奮する部分もあった。
 ただ一方で、ベートーヴェンの作品(それだけでなく古典派の作品)の演奏は難しいということを再認識したことも事実である。



*1:ジリノフスキーは、ロシアの自由民主党党首を務める極右政治家。いくら冗談とはいえ、これはネーメ・ヤルヴィに失礼だった。ヤルヴィはジリノフスキーとちっとも似ていないし…。

*2:ユリアーネ・バンゼか? 確かに、彼女の声質はあまり好みではないので。
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by figarok492na | 2009-09-13 12:14 | 欧州音楽日記

1994年2月22日(欧州音楽日記22)

 ☆ロッシーニ:歌劇『ラ・チェネレントラ』公演

  指揮:アダム・フィッシャー
  会場:バイエルン州立歌劇場(ミュンヘン)


 なんとかバイエルン州立歌劇場のチケットを手に入れて*1、ロッシーニの『ラ・チェネレントラ』を観ることができた。

 バイエルン州立歌劇場は、なかなか大きい。
 それだけに立ち見席を4階などにするとは「田舎者」のやることだ!
 と、憤慨するが、音は悪くない。
 ただオーケストラが響き過ぎて、時として歌声が埋もれてしまうときもあった。
 まあ、チケットが手に入っただけよかっただろう。
 もしチケットが手に入らなかったら…*2。

 演出は、今は亡きジャン・ピエール・ポネルのもの。
 一番上の、それも右端で立ち見なので、完全に舞台が見えないのが残念だが、演出はトラディショナル、そして音楽を活かしつつ巧みに笑わせる。
 やはり、モーツァルトやロッシーニといったブッファを得意とした人だったんだなあと実感する。
(彼の演出した、『フィガロの結婚』に接することができなかったのは残念)

 指揮は最初のクレジットとは違って、アダム・フィッシャー。
 イタリア流のロッシーニがどのようなものかいまひとつわからない私には、「やあ、ロッシーニ・クレシェンドがよく表わされていた」などとは恐ろしくて言えないが、オーケストラはよくまとまっていたと思う。
 オーケストラピットにヴァイオリン(ファースト)が10人入っているのには驚いた。
 最近はロッシーニを演奏する際のオケのメンバーも減っているはずだから。
 その分、力強い響きが出ていた。

 歌手陣は、素晴らしい出来。
 第1幕のはじめのうちは、ちょっとオケと合わない部分もあったが、後半はばっちり盛り上がり、第2幕は一気に聴かせた。
 アリドーロのカール・ヘルムは、謹厳な哲学者ぶりを発揮。少し速い歌詞は難しかったようだが。
 チェネレントラの姉妹役、ペトリ、ユングヴィルトは、ソロで活躍する部分はないもののの、アンサンブルに、そしてコミカルな演技に活躍。
 ダンディーニのアルベルト・リナルディは、美声。
 王子ラミーロ役は、ロベルト・ガンビル。ケルンの『アルジェのイタリア女』でも聴いた人*3。会場からブーが出ていたが、確かに彼のファルセットにはちょっと無理があるかも…。ただ、この役を最後まで声を落とすことなく歌えたことは評価しなければなるまい。
 そしてドン・マニフィコ役のエンツォ・ダーラ。最初はなんだ普通のバスじゃないかと思っていたが、アンサンブルやソロでの彼の見事さときたら。早口、裏声、ほとんど完璧だし、芝居も達者。ロッシーニのブッファだけで活躍しているといえば語弊があるかもしれないけれど、もしそうだとしても、これだけの逸材、拍手拍手。

 チェネレントラ(シンデレラ)=アンジェリーナのチェチーリア・バルトリ。
 顔だけ見ていてか細い声でも出すのだろうと思ったら、これは大間違い。
 れっきとしたメッツォの声。
 オペきちは、出だしの音がまだ完全でないなどと重箱の隅をつつくのかもしれないが、そういう点には疎い私は、素直にブラボー。
(手放しでブラボーを叫んだのは、これが初めて)
 まず声が美しい。高いところから低いところまで、ほぼ無理なく出ている。
 また、技術的にも、コロラトゥーラや早口など、技巧たっぷりのロッシーニの音楽を難なくこなしていたと思う。
 それと、ガレリアの遠目からでも映えるその容姿。写真では少々クセのある顔立ちだが、舞台では実に映える。
 これはレコードだけ聴いていても、ビデオで近くから映しているのを観ただけでもわからない実感。

 なんやかやイライラしていたが*4、この公演を観ることができて本当によかった。
 愉しい作品、愉しい公演。
 拍手が10分以上続いたということを付記しておく。
 ブラボーブラボーブラボー。



*1:別の公演の宣伝活動に来ていた、ミュンヘンの音楽大生の女性の強い助けがあって立ち見席を手に入れることができた。

*2:この公演を観るためだけに、ケルンからミュンヘンまで行ったので。ユーレールユースパスを持っていたので、交通費自体はかからないとはいえ。

*3:1993年11月18日のケルンでの公演。アルベルト・ゼッダの指揮、フルッチョ・フルラネットらの出演、ミヒャエル・ハンペの演出によるこの『アルジェのイタリア女』は音楽的にも高い水準にあり、お芝居としても抱腹絶倒の出来だった。

*4:ミュンヘン到着後、現地の国粋主義者とちょっとしたいざこざがあった。破れ傘刀舟の真似もあり相手を粉砕したが、自己嫌悪をはじめ嫌な気持ちが残っていた。
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by figarok492na | 2009-09-12 13:40 | 欧州音楽日記

1994年2月21日(欧州音楽日記21)

 ☆ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団定期演奏会

  指揮:ペーター・シュナイダー
  会場:ケルン・フィルハーモニー


 ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団の定期演奏会を聴く。
 今日も瀬尾さんは降り番。

 指揮者にバイエルン州立歌劇場の首席指揮者、ペーター・シュナイダーを迎え、ヴァイオリン独奏には、コンサート・マスターのトリスタン・ヤニッケが立った。
 曲目は、リヒャルト・シュトラウスのヴァイオリン協奏曲と、スークのアウラエル交響曲。
 非常に興味深いが、それと同じくらいにポピュラーではないプログラム。
 そのこともあってか、会場の入りはいつもと比べてやや少なめだった。

 リヒャルト・シュトラウスのヴァイオリン協奏曲は、独奏の技術もそれなりに必要なことと、初期の作品とはいえ管楽器等オーケストレーションが巧みなこと、さらには美しいメロディーがあることから、もっと演奏されてもよいのでは、と思った。
 第3楽章などは、ちょっとブラームスのパロディっぽく、厚みのあるヴァイオリンの音は聴けなかったが、技術的には無難にこなしていた。
 オーケストラのほうは、ホルンをはじめ管楽器がもさもさして気になったのと、弦がしばしばがたがたするので(音は美しいのだが)、この曲を完全に愉しむというまでにはいかなかった気がする。
 ベルリン・フィルで聴くと…、言うまい。

 休憩のあとは、スークのアスラエル・シンフォニー。
 これも初めて聴く曲。
 名前から予想されるのは、民族趣味彷彿としたおどろおどろしい曲調だが、これは大外れ。
 確かに第1部・第3楽章、第2部・第5楽章(フィナーレ)などでは、ドヴォルザークにもつながるスラヴ・ボヘミア民謡風舞曲調の音楽も登場したが、シュナイダーの解釈もあってか、洗練されて聴こえた。
 音楽的には、スメタナや先述したドヴォルザークだけではなく、ブルックナー、マーラー、シベリウス、ニールセンの雰囲気も備えている。
 ヴァイオリン・ソロの部分をはじめ、美しいメロディー、力強い音楽を多く持っていて悪い曲ではないと思う。
 ただ、今日の演奏は…。
 音がずれたり、管楽器の強奏が汚かったり…。
 この曲を取り上げたことには感謝するのだが。
 やはりベルリン・フィル、少なくともチェコ・フィル…、言うまい。
 言うまい。
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by figarok492na | 2009-09-11 12:40 | 欧州音楽日記

1994年2月18日(欧州音楽日記20)

 ☆エイジ・オブ・エンライトゥンメント管弦楽団ケルン公演

  指揮:サイモン・ラトル
  会場:ケルン・フィルハーモニー


 イギリスでは聴くことのできなかった、サイモン・ラトルとエイジ・オブ・エンライトゥンメント管弦楽団の演奏をケルンで聴いた。
 きちんとしたかたちのコンサートで、こうしたオーセンティックな楽器(古楽器)のオーケストラを聴くのは今回がはじめて。
 曲目は、モーツァルトの40番のシンフォニーとシューベルトの「ザ・グレイト」というシンプルなもの。
 しかし、有名な曲だからこそ、逆にこうしたオーセンティックな楽器で演奏するということは重要かつ困難なものとも思う。

 まず、モーツァルトの40番。
 出だしからしてしなやか。音量は小さめで、強音の部分でも現代のオーケストラのそれに比べるとあまり力強くは感じないが、肌理の細かさ、コントラバスの一音一音でさえも聴きとれるという点では、やはりこちらが上。
 また、速いパッセージの弦の鮮やかさは、モダン楽器では早々表現できないものだろう。
 逆に、管楽器は演奏するのが大変そうだったけれど。
 ラトルの解釈は、速いテンポ。それと、間のとり方、副声部の鳴らし方などが特徴的。
 特に、第2楽章がこれほど美しい音楽だと感じたのは、はじめてだ。
 第3楽章のメヌエットも、メヌエットという舞踊音楽を意識した演奏。
 フィナーレもスピード感あふれるものだった。
(ミスは観ない、聴かない、言わない!)*1

 休憩後は、「ザ・グレイト」。
 楽器配置等の関係もあってだろうが、これまで気にとめることのなかった管楽器や、ヴィオラ、コントラバスの*2奏が印象的だ。
 第1楽章は、これまでの重量感あふれる後期ロマン派的な演奏からはほど遠い軽やかなもの。
 ラトルは伝統的な解釈を活かしつつ、強弱などに個性をもたしていたよう。
 ミスもいくつかあったが、ウィーン・フィルの古式ゆかしい演奏とは、また異なる「ザ・グレイト」を愉しむことができた。

 会場の大拍手に応え、アンコールは『フィガロの結婚』序曲。
 弦のあの速い動きがよく再現されていて、愉しかった。
 ああ、このあと、フィガロとスザンナの二重唱がそのまま始まってくれればと、思ったが、オペラ全曲となると管楽器が大変だろうな。
 それでも、演奏しているようだけど*3。



*1:終楽章のリピートで、第1ヴァイオリンの3プルトめぐらいの女性が明らかにわかるミスをしたのである。終演後、彼女は相当落ち込んでいた。この彼女と対照的なのが、2001年6月17日の東京都交響楽団京都公演(ジャン・フルネ指揮)の一曲目、ベートーヴェンの『エグモント』序曲のコーダで大ポカをやったトランペット奏者。終演後、隣の奏者と「やっちまった」的に笑い合っていた。ミスは仕方ないし、笑い合うことだってかまわない。ただ、同じことを君は、天皇皇后両陛下や嵐を呼ぶ都知事臨席のコンサートでもできるのか?

*2:崩し字のため、なんと書いてあるのか判読できず。

*3:ラトルとエイジ・オブ・エンライトゥンメント管弦楽団の演奏したモーツァルトのオペラでは、『コジ・ファン・トゥッテ』のライヴ録音<EMI>を以前愛聴していた。ただし、今は諸般の事情で手元にはない。
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by figarok492na | 2009-09-10 11:51 | 欧州音楽日記

1994年2月15日(欧州音楽日記19)

 ☆ロンドン・フィル定期演奏会

  指揮:ロジャー・ノリントン
  会場:ロイヤル・フェスティヴァル・ホール


 身体の不調を感じつつも、ロイヤル・フェスティヴァル・ホールへ。
 ロンドン市街とは対岸にあるサウスバンク、その芸術センターの目玉の一つが、このホール。
 今日聴いたロンドン・フィルをロンドンの5つのオーケストラからレジデント(座付き)オケに選択した。

 で、今日のコンサートはもともとドイツ出身の巨匠クラウス・テンシュテットが指揮する予定だったが、キャンセルとなった*1。
 癌の状態が相当悪いのではないだろうか?*2
 代役は、ロジャー・ノリントン。ヨーロッパ室内管弦楽団のブラームス他を聴いていたので、ベートーヴェンとブラームスというプログラムが実に愉しみだった*3。

 ロイヤル・フェスティヴァル・ホールのホール自体はあまり飾りっけがない。
 ただし、レストラン*4、バー、書店、レコードショップが揃っていて、ゆとりを感じさせる。
 ホールの残響はそれほど長くないが、楽器の音がクリアに聴こえるので、「悪い」とは思わない。
 ロンドンの五大オーケストラの演奏との関係が感じられるのと*5、イギリス人の音楽に対する嗜好がはかられて面白い。
(バーミンガムの新しいシンフォニーホールは、残響度の高いホールで、「高い評価」を受けているらしい。一度行ってみたいのだが…)

 さて、演奏のほう。
 ほぼ思っていたとおり。ただ当然のことながら、ケルンに比べお客さんの数が多い。
 ベートーヴェンの『コリオラン』、交響曲第8番、ブラームスの交響曲第4番という典型的なドイツ・プログラムなのだが、ノリントンが振ると斬新な音楽が奏でられる。

 『コリオラン』では、力強さが印象的。
 そして、ベートーヴェンの第8番。もちろんヴィヴラートは極力行われていないし、テンポのとり方も速い。そしてティンパニの強打。これまでの一般的な演奏だと「小さくてユーモラスな交響曲」としか感じられないものが、ノリントンの解釈で聴くと、第7番と対になる「舞踏の交響曲」なのだと思い知らされる*6。

 休憩中、舞台にいたチェロの奏者と話して、ブラームスの解釈について尋ねてみたが、あまり共感していないよう。普通なら、それほど練習しなくてもよいだろうから。
 「京都は素晴らしい」と、しきりに誉めていた。

 後半のブラームス。
 第1楽章は、ヴィヴラートをたっぷりかけて思い入れのこもったゆったりとしたいテンポの演奏が行われるが、ノリントンの場合は例の如くだから素っ気ないくらい。
 ただし、コーダの部分の盛り上がりは、尋常ではなかった。
 そして、フィナーレまでこの調子が続く。
 いずれにしても、ロマンティシズムのほこりをはらった、ベートーヴェンとブラームスの音楽のつくりの違いがはっきりと理解できる興味深い演奏だった。
(この曲になると、オケも大変か、ずれやミスもいくつかあったが。とはいえ、こうした演奏を適切にこなすことのできるロンドン・フィルは、やはり技術的に高いオーケストラであると言える)



*1:当日券を購入する際、係の男性が何度も「You know?」と繰り返した。後述の如く、僕はノリントンの演奏に期待していたので「I know」と鷹揚に返事をした。

*2:その後、テンシュテットは1998年1月に亡くなってしまう。

*3:1993年9月19日、ケルン・フィルハーモニーでのコンサート。このときは、ブラームスの交響曲第3番やシューベルトの交響曲第4番「悲劇的」などが演奏されていた。ノリントンはシューベルトの交響曲第4番をロンドン・クラシカル・プレイヤーズ<EMI>と録音しているが、ヨーロッパへ行きがけのシンガポール航空の飛行機の中でたまたまこの録音を何度か聴いていたこともあり、非常に印象深いコンサートとなった。

*4:開演前にここで夕食をとった。満席だったこともあり、初老の夫妻に誘われ相席をさせてもらったが、夫のほうはロンドン大学の数学の教授、妻のほうも研究者といういわゆるインテリの夫妻で、日本の政権交代などについて身振り手振りを交えて話をした(英会話が得意ではないので)。夫は自由民主党、妻は労働党左派の支持者だったのだけれど、小選挙区制度に関してはともに「反対」。日本が小選挙区制度に変わることにも懸念を示していた。

*5:五大オーケストラの一つ、ロンドン交響楽団はバービカン・センターに本拠を移していたし、確かロイヤル・フィルやBBC交響楽団もバービカン・センターでの定期演奏会を開催していたが。

*6:ちょうど同じ列、近くの席に日本の女子大生二人が座っていたのだが、演奏が始まったとたん、「なに、これ」といった驚嘆の声を漏らしていた。
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by figarok492na | 2009-09-09 12:45 | 欧州音楽日記

1994年2月14日(欧州音楽日記18)

 ☆マスネ:歌劇『シェリュバン』公演(プレミア)

   指揮:マリオ・ベルナルディ
  管弦楽:コヴェントガーデン・ロイヤル・オペラ管弦楽団
   会場:コヴェントガーデン・ロイヤル・オペラ


 ロンドンに来て、風邪気味になるわ、いろいろと嫌な思いはするわ*1で、心の中も今日の天候と同じような半日だったが、コヴェントガーデン・ロイヤル・オペラのチケットは、すぐに手に入った。

 演目は、マスネの歌劇『シェリュバン』(そのプレミア)。
 最近、フレデリカ・フォン・シュターデをタイトルロールにしたコンパクト・ディスクも発売されているので*2、それも関係しているのかもしれない。
 『フィガロの結婚』の後日譚といったところだが、ボーマルシェの続篇とは異なり、ケルビーノが伯爵夫人と不倫関係となって罪ある(罪なき)子供が生れてくるようなことはない。
 物語は、17歳の誕生日を迎えたシェリュバン(ケルビーノ)が、ダンサーのアンソレイヤードをはじめとした「女性」に愛し恋し、絶望もする中で、最後にニーナという「愛すべき」人を見つけるというもの。
 公爵が「ドン・ジュアンの誕生」だと言い、哲学者が「それでは、ニーナはエルヴィラだ」という幕切れは、モーツァルトにあやかったという意味でも、シェリュバン(ケルビーノ)という存在、ひいては男性心理・女性心理、人の心理を端的に示しているという意味でも、しゃれている。
 第1幕は、はっきり言って「なんじゃ、こりゃ」。
 まるで、宝塚か何かの出来の悪い音楽芝居を見せられているようで「?」だった。
 しかし、第2幕以降、マスネ特有の叙情的な音楽が中心を占める部分になると、がぜん面白さが増した。
 アンソレイヤードの独唱と、シェリュバンとの二重唱、第3幕のシェリュバンの独唱、哲学者との掛け合いなどは、なかなか聴き応えがあった。
 聴いた感想は、歌手が揃えば、愉しめる作品。
 日本では、宝塚の面々にシェリュバンとダンサーをやってもらえれば面白いかも?
 無理かなあ…。

 指揮は、ゲンナディ・ロジェストヴェンスキーがいつの間にか降りて、カナダの指揮者ベルナルディに変わっていた。オケは時折ずれていた部分もあった。
 歌手は、一番に推すのが、アンソレイヤードのマリア・バーヨ。歌い方に少しクセがあるが、美声。スペイン風のフランス語の歌を見事に歌い上げていて感心した。
 タイトルロールのスーザン・グラハム(グレアム)も美声。芝居も達者だった。
 ニーナのアンジェラ・ゲオルギューは、喉を震わすような歌い方に私は拒否反応*3。
 哲学者のロバート・ロイドは、最初何を歌っているかよくわからなかったが、後半は声も通っていた。
 脇役陣、特にコミカルな役柄を引き受けた男性陣に拍手。役者が揃っていた。

 演出・美術は、斬新なもの。
 と、言っても音楽を台無しにするものではなかった。
 本来はト書きにないはずのフィガロとスザンナ(ジョン・ラムとジェーン・ガーネット。良かった)の登場も目障りでなく、レチタティーヴォを英語で語ったりした点(あくまでも音楽の邪魔をしない形で)もよいアイデアだと思った。

 ロイヤル・オペラの響きは、PAを使っているのかもしれないが、平土間で聴くとオケなどが天井や横のほうから鳴っているような気がしたし、また響き自体、ウィーンと比べるとそれほどよくないように思う。
 それとお客さん。明らかにアッパークラス、そしてミドルクラス中心。背広を着て行っても、なんだか、彼彼女らの雰囲気に圧倒されてしまった。
 イギリスには、やはり未だ「クラス」が残っているという実感。



*1:英語を話せて当然、という傲然としたロンドンっ子たちの態度に辟易したほか、諸所で厄介な出来事に巻き込まれたため。今では、いい経験が出来たと思っているが。

*2:ピンカス・スタインバーグ指揮ミュンヘン放送管弦楽団他<RCA>。

*3:アンジェラ・ゲオルギューという歌い手の声が、僕はずっと好みでないのだけれど、なんとこのときからそうだったんだ。
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by figarok492na | 2009-09-08 12:58 | 欧州音楽日記

1994年2月12日(欧州音楽日記17)

 ☆フィルハーモニア管弦楽団ウォーリック大学公演

  指揮:ジェイムズ・レヴァイン
  独奏:マレイ・ペライア(ピアノ)
  会場:ウォーリック大学アーツセンター


 イギリスのウォーリック大学を訪問。
 フィルハーモニア管弦楽団のコンサートを同大学のアーツセンターで聴く。
 もちろん、大塚さんも同行*1。
 ただし、このコンサートのあと、学生のカーニバルのパーティーに参加して、女装はするわ、踊りまくるわで、明け方4時まで騒いでいたので、少々音楽については薄れ気味だけど…*2。

 プログラムは、ベートーヴェンの四番のピアノ・コンチェルトと、エロイカ・シンフォニー。
 指揮はジェイムズ・レヴァイン、ピアノ独奏はマレイ・ペライアという、「お前、ただの大学だろう!?」と言いたくなるような豪華な組み合わせ。
 当日、ほとんどソールド・アウトの盛況ぶりだった。
 アーツセンターは、映画館なども附随し、専用のレストラン(なかなかしゃれている)まであるということで、どこぞの大学に爪の垢でも飲ませてやりたいくらいだ*3。

 ホール自体は吹き抜けで簡素なつくり*4。
 後ろのほうの席で聴いたが、ホールがそれほど大きくないので気にならない。
 ホールの響きは、残響が少ないよう。
それと、金管楽器が少しくぐもって聴こえる。弦は、悪くない。
 全体的に、最高の音響とは言えないだろうが、一般的な日本の市民会館等多目的ホールの音と比べて遜色ないと思う。

 さて演奏のほう。
 ペライアの四番はつい先日もギュルツェニヒ管の定期で聴いたばかりだが*5、オーケストラの技術が上なので、安心して聴いていられた。
 ペライアは、ピアノの音が少しペラペラに聴こえたが、素晴らしい出来。
 やはり、第1楽章のカデンツァがよい。
 フィナーレはオケの音が強く、ピアノの音が消され気味だったが。
 レヴァインの解釈は、レナード・スラットキン&セントルイス交響楽団に近く、第2、第3楽章とも力強い。
 ただ、印象としてはセントルイスに比べ抑制がきいている。

 後半の「エロイカ」*6。
 ヨーロッパ滞在中、この曲を聴くのは四回目。
 第1楽章は、これまで聴いた中で、一番感心した。
 自分がこういうテンポで聴きたいと思っていた速めの演奏だったからだろう。
 第2楽章は、少々ずれが目立った。
 第3楽章は、ホルンが上出来だったが、ホールの音響のせいかそれほど美しい響きには聴こえず。
 第4楽章は、大塚さんとも話したが、ダレてずれ気味だった。

 とは言いつつも、大学でこんなコンサートを聴くことができるなんて!
 どういうこっちゃ!
 と、叫びたくなるわい。



*1:現在立命館大学政策科学部准教授の大塚陽子さん。当時、ウォーリック大学に留学中だった。1993年9月26日のケルンでの『コジ・ファン・トゥッテ』公演で遭遇したのち、しばしば手紙のやり取りをしていて(あのころは、メールなんて便利なものはまだなかった)、このイギリス訪問につながった。

*2:このときのおぞましい写真が手元にある。まあ、それはそれとして、酔っているときには、英会話がスムーズにできるということに驚いた一夜でもあった。

*3:このシーズン、ウォーリック大学のアーツセンターは、サンクト・ペテルブルク・フィルのコンサートをはじめ、非常に充実した内容だった。なお、「どこぞの大学」とは、もちろん立命館大学のこと。川本八郎君に巨額の退職金を与える前に、こうしたアーツセンター設立に資金を投入してもいいのではないのか? 映画関係の学部もできたんだしさあ。

*4:余談だが、バーミンガムにシンフォニーホールができるまで、バーミンガム・シティ交響楽団のCD録音は、このウォーリック大学のアーツセンターのホールで行われていた。

*5:欧州音楽日記15をご参照のほど。

*6:ジェイムズ・レヴァインはメトロポリタン歌劇場のオーケストラと、この曲をドイツ・グラモフォン・レーベルに録音している。
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by figarok492na | 2009-09-07 12:28 | 欧州音楽日記

1994年2月9日(欧州音楽日記16)

 ☆ショスタコーヴィチ:歌劇『鼻』公演

  指揮:デヴィッド・レヴィ
 管弦楽:ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団
  会場:ケルン市立歌劇場


 オペラとは、恋心を抱いた男と女が、その悲劇的な展開においおいと声を張り上げる大げさな芝居だと思い込んでいる人間には、今日ケルン市立歌劇場で上演されたショスタコーヴィチの『鼻』は、驚きの対象でしかないだろう。
 ゴーゴリの原作による『鼻』*は1、一言で言えば、喜劇である。
 それも滑稽な。
 ある朝、男の鼻がとれ、いつの間にかその鼻が人格を持ち、鼻の本来の持ち主よりも尊拝されるようになる。
 その展開はあまりにあまりで、それこそ「荒唐無稽」と呼ぶほかない。
 が、しかし、この作品は単なる笑劇だろうか?
 当然、違う。
 個人の意志や才能、そして人格が無視され抑圧される、家柄や地位によって多くが左右される、帝政ロシアへのゴーゴリの痛烈な批判がそこにこめられていることを忘れるわけにはいかない。
 そして、ショスタコーヴィチが、このゴーゴリの作品をオペラ化したことにも注目せざるをえない。

 演出のハリー・クプファーは、その評判にたがわず、『鼻』という作品を明確な政治劇として描いた。
 それも、社会主義・ソビエト(ロシア社会)への諷刺としてだけでなく、私たち現在(ドイツ社会の現状を中心に)に対する強い批判として描き上げた。
 回転舞台の上で転げ回り、叫び、祈る人々は、ときにネオナチであり、失業者であり、「市民」であった。
 「個」が「個」として認められない社会へのアンチテーゼとしてこの『鼻』は取り上げられたのである。
(と、言っても、彼の演出を、諸手を挙げて賛美はし難いが)
 指揮は、いつの間にかデヴィッド・レヴィという人物に。
 アメリカ生まれだから、「コンロン系統」の人物か?
 威勢のよい指揮をしていた。
 オーケストラのほうは、時折ショスタコーヴィチの音楽についていけていないのでは? とも感じたが、全体的には悪くはない。
 音楽としては、交響曲との関連の深そうなマーチの弦の扱い方、それと合唱の部分に特に感心する。
 歌手は、主役という概念から言うと、鼻のとれた人物を演じたガードナーだろうが、警視総監役のモーグニー(本当に声を出すのが大変そう)をはじめ、ケルンのオペラの専属歌手総出演の感。これだけ歌い手がいるということに感じ入るし、また合唱の層も厚い。
 物語としては人間の「個」の疎外が扱われているが、音楽作品としては歌手陣からコーラス、オーケストラの一人一人にいたるまで、「個」の力量、そしてその「個」の集まりである全体の力量が問われる力作と言える。
 本当にご苦労様。
 なお、ドイツ語訳による上演だったが、違和感は持たず。


 昨晩テレビで、ウェールズ・ナショナル・オペラの『ペレアスとメリザンド』を観た。
 音質が悪いので、演奏を云々することはほとんどできないが、歌手陣の声質の良さと見栄えの良さ、演出の斬新さに感心した。
 ブーレーズの指揮によるオーケストラの演奏がよく聴こえず、非常に残念*2。




*1:この『鼻』をはじめ、『外套』や『狂人日記』、戯曲『検察官』といったゴーゴリの作品を、僕は高校時代に岩波文庫で読んでいた。

*2:今回の日記の余白に書かれている文章。この演奏はDVDが発売されている。
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by figarok492na | 2009-09-06 12:42 | 欧州音楽日記

1994年2月7日(欧州音楽日記15)

 ☆ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団定期演奏会

  指揮:ギルバート・ヴァルガ
  独奏:マレイ・ペライア(ピアノ)
  会場:ケルン・フィルハーモニー


 残された時間は少ないのだが、あまり興味をそそられるコンサートやオペラはなし。
 明後日は、バイエルン・シュターツオーパーの『仮面舞踏会』を観るためにミュンヘンまで行ってみようと思っているが、チケットがあるかどうか?
 なんとかなるだろう*1。

 で、4日ぶりに音楽会。
 ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団の定期演奏会を聴きに、フィルハーモニーまで。
 今月、瀬尾さんは演奏会のため帰国中。
 さて、公演プログラムを目にしてびっくり。
 ピアノはペライア*2のままだったが、指揮者が…。
 ジェイムズ・コンロン自体、そんなに気に入っているわけではないが、しかし。
 ギルバート・ヴァルガ。確か、フィルハーモニア・フンガリカの指揮者を務めていた人物だが、あんまりぱっとしない人ではないかしらん。
 公演プログラムには、バーミンガムやロッテルダムのオーケストラの指揮もしているとあったが。あと、隣に座った本来シュテー(立ち見)同志の女性によると、デトモルトのオケや室内オーケストラをよく振っているらしい。それと、ホーフのオケ(矢崎彦太郎の振っている)も。

 一曲目は、マレイ・ペライアの独奏で、ベートーヴェンの四番目のコンチェルト。
 前回、セントルイス響とブッフビンダーで聴いたとき*3は、何か超人スーパーマンがベートーヴェンを演奏しているみたいだったが、今日は人間の演奏。
 オケはところどころミスがあったが、第3楽章など、力いっぱい音を鳴らしていた。
 ただし、ピアノをリードするという形にはなっていなかったけれど。
 ペライアは、第1楽章では時折音を外したりしていたが、音楽の強弱の付け方は実にエレガンス。特にカデンツァが良かった。

 休憩中にぐいっとケルシュ*4をひっかけて、ブラームスの第2番のシンフォニーを聴く。
 マゼールとバイエルン放送交響楽団で聴いたとき*5には、第1楽章やフィナーレの弦の進行がとてもギクシャク(下手という意味ではない)して気になったが、今日はほとんど気にならない。
 特に大好きな第1楽章を聴いていて、例えば低弦(チェロ)が主題を奏で、ヴァイオリンがそれに応じるところや、再現部など、「ブラームスはこんなに美しい音楽をよくぞ造り上げた」と感心した。
 と、言っても、演奏にはミスもたくさんあり、第3、第4楽章などずれまくっていたが。
 それと、指揮者の解釈は中庸?
 第3楽章は速めのテンポだったけれど。
 それでも、大きな拍手とブラボー。
 ドイツの皆さんは、やはり「ブラームスはお好き?」*6。



*1:結局、このときはミュンヘンに行かなかった。その代わり、2月22日にロッシーニの『ラ・チェネレントラ』を観に行った。

*2:この公演期間中(ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団の定期演奏会は三日間ある)のある日、ケルンの大聖堂近くのCDショップで、ペライアと遭遇した。物静かな感じの人だった。

*3:1993年11月5日の、セントルイス交響楽団のケルン公演。指揮は、レナード・スラットキン。

*4:ケルンの地ビール。すっきりさっぱりとした味わいで、それほどビール党でない僕も大いに気に入ったのだが、帰国後は一度も飲んだことがない。どうやら、専門店では飲めるみたいだけれど。

*5:ヨーロッパに向かう前の、1993年3月25日、名古屋の愛知県芸術劇場コンサートホールでの来日公演。会場直前に係(バイト)の若い男が「バイエルンきょうそうほうそう楽団のお客様、バイエルンきょうそうほうそう楽団のお客様」と呼びかけていたのが未だに記憶に残る。

*6:この文章の終わり方は、なんとも嘘臭く、不愉快。今、こんな文章を他人が書いているのを読んだら、「いやかましいやい、この野郎!」と、破れ傘刀舟化するだろうと思う。
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by figarok492na | 2009-09-05 13:23 | 欧州音楽日記