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カテゴリ:創作に関して( 31 )

犬神家の末裔 第6回

*犬神家の末裔 第6回


「いつもメールありがとう」
「こっちこそ。PTAに生協、おまけにパートまでやってるから、短いのしか送れないんだけど」
「相変わらずアクティヴだね」
「いやあ、これも血だよ」
 睦美が笑い声を上げた。
「あっ、この前贈ってもらった本も面白かったよ」
「そう言ってもらえると嬉しいなあ」
「昔っからお話作るの上手かったからねえ」
「まさか物書きになるとは思ってなかったけどね」
「最近、忙しいんだよね」
「まあ一応」
「おばちゃんがさあ、早百合はちっとも連絡くれんて言ってたもんだから」
「そっか。母さん、携帯持ってないからなあ」
「まあ、電話はなかなかね」

 立憲政治を護る、フルハシキョウイチロウ。
 立憲政治を護る、フルハシキョウイチロウ。

「古橋って、顧問弁護士の」
「うん、あの人もあけーから」
 再び睦美が笑い声を上げた。
「実はね、私あのこと調べようと思ってるんだ」
「あのことって」
「ひいおばあさんやおじいさんのこと」
「うちのことか」
「そう。横溝正史の小説って、モデルはうちのことだけど、八割方フィクションじゃない」
「ばあちゃん、未だに怒ってるもんね。私はこんなおかしな女じゃないって」
 小枝子は戦前戦中戦後と穂高の相馬黒光女史に学ぶなどして、男勝りとまで言われた人物だ。
 犬神小夜子の造形に腹を立てるのも当然だろう。
「おまけに、映画で小夜子の役やったの川口晶でしょ、ばあちゃんカンカン」
「奥菜恵もやってたけどね」
「そっちは観てないんだ、ばあちゃん。二番煎じはやだよ言うて」
「らしいなあ」
「で、川口晶って、三益愛子だっけ、娘でしょう。ばあちゃん、なんでか三益愛子が大嫌いなんだよ。昔、お涙頂戴の映画に出ててうんざりしたって。石坂浩二は大好きだったらしいけど、昨日久しぶりに会って、あんたも老けちゃったねえって。石坂浩二も、ばあちゃんに言われたくはないわ」
「えっ、石坂さんにそんなこと言ったの」
「そう。石坂浩二、ぶすっとしてた」
 早百合には、石坂浩二の憮然とした表情が目に浮かぶようだった。
「私も作家だから、横溝さんの気持ちはよくわかるの。実際に起こったことをそのまま書いたって、ちっとも面白くないから」
「うん」
「だけど、ていうか、だからか。それじゃあ、実際に起こったことって一体なんだったのかなあと思って」
「実際に起こったことねえ」
「そう。なんでひいおばあさんはあんなことしちゃったんだろうとか。いくら自分の母親を庇うためとはいえ、おじいさんだってひどいことしたわけじゃない。私は、優しくて静かなおじいさんしか覚えてないから」
「そうかあ」
 そこで、ふうと大きくため息を吐くと、
「この前ばあちゃんが言ってたんだよね。NHKのファミリー・ヒストリーだっけ、あれ見てて。きれいごとだよって。ええって訊き返すとさあ、こんなのテレビジョンでやっても差し障りのない人間だけが出てるんだから、きれいごとだ、だったらあたしのファミリー・ヒストリーやってみろ、って。もう怖いもんなしなんだよね」
と、睦美は続けた。
「そっか。そんなこと言ってたんだ」
「やったら。まあ、早百合ちゃんならやるなって言ってもやっちゃうんだろうけど」
「たぶんね。私は私だもん」
 早百合がようやく笑い声を上げた。
「もうすぐ着くよ」
 目の前に那須湖が見えてきた。
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by figarok492na | 2016-04-09 11:09 | 創作に関して

犬神家の末裔 第5回

*犬神家の末裔 第5回

 那須市長選は地域活性化の現職カドワキダイサクをご支援ください。
 那須市長選は地域活性化の現職カドワキダイサクをご支援ください。

 喧しい選挙カーが対向車線を走り抜けて行った。
「市長選か」
「次の日曜日が投票日」
「門脇って現職だよね」
「うん。今度の選挙に勝ったら、市民会館潰して、ムジークなんたろいう立派なコンサートホール建てる言ってて。地域活性化じゃ、松本や長野には負けておられんのじゃ言って」
「松本は小澤征爾で、長野は久石譲だもんね」
「なんか鈴ちゃんにまで連絡あったんだって。ぜひ、N響で杮落ししたいからって。それで、一応うちにも断りの挨拶に来たんだけど、ばあちゃん、無駄金使ってどうするか、この抜け作がって一喝したんだ」
「抜け作」
「うん、抜け作」
「小枝子おばさん、百近いんじゃない」
「今年で九十八だけど、まあだ矍鑠としてる。朝昼晩て、しっかりごはんも食べてるし。頭もしっかりしたもんで、和俊おじさんなんか、百二十ぐらいまで生きるかもしれんよて。憎まれっ子世に憚るだって自分で言うてるくらい」
「小枝子おばさんらしいなあ」
「そうだよ。まあ、コンサートホールはばあちゃんの言う通りだと思うよ。あんなの造ったところで、ゼネコン喜ばすだけだから」
「田中さんが知事になって、だいぶん変わったんじゃないの」
「いやあ、なかなか。那須もまだまだ田舎だからね。地元の人間が潤うんならまだしも、美味しいところは全部大手が持って行くんだって、これは信哉の受け売りだけどね」
 信哉は睦美の夫で、信州新報の記者をやっている。
「だいたい古いお店が潰れて、ドラッグストアや百均ばっかり建ってるんだ。地域活性化もへったくれもないわ。あっ、こんなことばっかり言ってるから、戌神の家はあけーて噂されるんだった」
 睦美がちろっと舌を出した。
 もともと信州は左翼の強い土地柄だし、私生活は置くとして、戌神恒兵衛自身、東の戌神西の大原と呼ばれた進歩的経営者として知られた人だった。
 戦前陰ながら無産政党を支援していたという逸話もあるだけに、その末裔たちがリベラルな思想に走ったところでなんら不思議ではない。
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by figarok492na | 2016-04-08 16:45 | 創作に関して

犬神家の末裔 第4回

 早百合が物思いにふけっているうちに、新幹線は那須駅に着いた。
 長野新幹線が開業してからというもの、一時間半足らずで東京と那須は結ばれるようになった。
 ただ、時間的な距離が短くなった分、精神的な距離も短くなったかといえば、たぶんそれは違うと早百合は思う。
 電車を降りたとたん、冷たい風が早百合の頬を打った。
 バッグの中からマフラーを取り出して、早百合は首に巻き付けた。
 たった一時間半の差で、これだけ気温が違う。
「早百合さん、ですよね」
 早百合がはっとして視線を移すと、若い男性を連れた長身の壮年の男性が、東京行きのホームに向かおうとしているところだった。
 端正な声にもしやと思っていたら、やはり彼だった。
「ご無沙汰しております」
 早百合が頭を下げると、先方も同様に頭を下げた。
「お母様、早くよくなりますように」
 男性はもう一度頭を下げてから、階段を上がって行った。

 駅の玄関口を出ると、メールに書かれていた通り、バスロータリーの隅に青のボルボが停まっていた。
 早百合が軽く手を振ると、運転席の睦美が頷き返す。
 かまってかまってかまってちゃん。
 こまったこまったこまったちゃん。
 助手席のドアを開けると、流行りを過ぎたアイドル・グループの陽気を装った歌が零れてきた。
「お疲れ」
「そっちこそありがとう」
 睦美は小枝子の次女の美智子の長女だから、早百合にとっては、はとこにあたる。
 早百合とは、八つ違いだ。
「母さんの具合は」
「軽い心筋梗塞やって。詳しくは和俊おじさんが説明してくれると思うけど」
「そっか」
「そしたら出すね」
 ゆっくりとボルボが動き始めた。
「あっ、さっき石坂さんに会ったよ。母さんのことも知ってたんでびっくりした」
「石坂浩二、昨日うちに来てたんよ」
 バックミラーを気にしながら、睦美が応えた。
「えっ、うちに」
「うん。なんか今度WOWWOWで金田一耕助の特集やるんで、また那須で撮影するんやって。で、その前に戌神家にもご挨拶にって」
「知らんかった」
「おばちゃん、調子がようないもんですからって挨拶しただけですぐに部屋に戻ったんやけど。信光がもう大はしゃぎしてかなわんかった」
「信光君、いくつやったっけ」
「再来月で九歳」
 睦美が軽やかにハンドルを切った。
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by figarok492na | 2016-04-08 10:42 | 創作に関して

犬神家の末裔 第3回

 早百合が夏目と出会ったのは、彼女が社会人となってしばらくしてからのことだ。
 早百合は学生生活の終わりとともに、彼女にとって幸福ではない恋愛にも終止符を打っていた。
 だが、
「お前には壁があるんだよ。だから、お前とやっててもちっとも楽しくなかったんだ」
という、前の恋人の別れ際の無思慮な言葉は、早百合の心の中で癒えない傷となって残っていた。
 前の恋人の歪んだ表情と一緒にその言葉が脳裏に浮かぶたび、早百合は、死ね、と口にしかけて自分の感情をすぐに押し留めた。
「たとえどんな相手でも、死ねなんてこと言ってはだめなの」
 あれは、早百合がまだ幼稚園か小学校の低学年の頃だった。
 何かにかっとなって、死ね、死んでしまえと叫んだとき、傍にいた祖母が早百合の目をじっと見つめながら、そう諭したのだ。
 それ以来、心の中では、死ね、死ねばいいのに、死んでしまえと思っていても、早百合はその言葉を口に出すことを躊躇うようになった。
 もしかしたら、その躊躇いこそ、自分の心の壁を生み出す一因となっているのではないかと思いつつも。
 そんな早百合の想いを知ってか知らずか、夏目は彼女に対してとても優しく接しかけてきた。
 まるで、最初から壁などなかったかのように。

 早百合が勤務する広告会社にイラストレーターとしてよく出入りしていた夏目と親しくなったのは、たまたま休みの日に出かけた新宿御苑でだった。
 陽の光を浴びながら大の字になって寝転がっている男性が、なんだかとても気持ちよさそうだ。
 おそるおそる近寄ってみると、なんとそれが夏目だったのである。
「夏目さん」
 と、声をかけると、夏目は上半身を起こして、おお早百合ちゃんと言った。
 さらに早百合が近寄ると、夏目は再びごろんとなって、
「こうしてるとさあ、次から次にアイデアが浮かんでくるんだよね」
と、さも嬉しそうに続けた。
 思わず早百合も夏目の横にごろんとなって、手足を大きく拡げ、ううわあと声を出した。
 夏目も早百合を真似して、ううわあと声を出した。

 夏目と付き合い始めてすぐに、父が亡くなった。
 入院して僅か二週間。
 早百合には、ゆっくり別れの言葉を父と交わす時間が与えられなかった。
 混乱する早百合を自動車で那須の実家まで送ってくれたのも、夏目だった。
 お願いだからお通夜や葬儀にも出て、と早百合は口にしたが、それはだめだよ、と言って夏目は東京へと戻って行った。

 早百合が夏目を母に紹介したのは、父の一周忌の席だった。
 夏目が同行することは、すでに電話で知らせてあった。
 母は、そうなのとだけ素っ気なく応えた。
「私にとって大事な人なの」
「よろしくお願いいたします」
 二人が頭を下げたとたん母は、あなたたちはこんな場所で、なんてふしだらな、常識知らずで恥知らずの男、情けない、うちには分ける遺産なんてない、と切れ切れの言葉で罵り始めた。
「こんなことぐらいで取りのぼせてどうするの」
 と、大叔母の小枝子に平手で頬を叩かれて、母はようやく正気に返ったが、今度は夏目が立ち上がり、一同に深々とお辞儀をすると、黙ってその場を去って行った。

 それっきり、早百合は夏目と連絡がとれなくなった。
 人づてに、夏目が郷里の帯広に戻ったと聞いたのは、それからだいぶん経ってからのことだ。
 今となっては、夫を亡くした哀しみや、一人娘を奪われてしまうかもしれない動揺や、さらには親類縁者を前にした緊張といった心の中の諸々が、一瞬母を狂わせてしまったのだと想像することはできるものの、あの日の母の醜い顔を早百合はどうしても忘れることができない。
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by figarok492na | 2016-04-07 17:37 | 創作に関して

犬神家の末裔 第2回

 朱雀経康は早百合にとって初めての恋人だった。
 同じサークルの緑に紹介されたのがきっかけで、経康は学習院の文学部に通っていた。
 彼って、元侯爵家の次男坊なの。
 と、緑が耳元で囁いたが、確かに長身で色白、人懐こい表情は元華族の家柄に相応しかった。
 最初のデートがサントリーホールでのコンサートというのも、また非常にそれらしかった。
 早百合がチケットのことを気にすると経康は、叔父が新聞社の芸術部門担当だから、と言って微笑んだ。
 地元にいた頃、早百合にクラシック音楽に触れる機会がなかったわけではない。
 それどころか、早百合の実家が援助して建設された市民会館で行われるコンサートには、両親ともどもよく足を運んだものだ。
 そういえば、音楽の道に進んで今ではNHK交響楽団のフルート奏者をやっている従妹の鈴世は、何かのコンクールの本選まで進んだとき、審査員を務めていた音楽評論家で横溝正史の長男の亮一氏に、「私、犬神家の一族です」と声をかけて面喰われたと言っていた。
 そういう性格だからこそ、臆せず戌神の姓を名乗っていられるのだろう。
 ただ、囹圄の人であった祖父を一生庇い続けた祖母の人柄もあってか、早百合の実家は質素質実を旨ともしていた。
 だから、サントリーホールの煌びやかな内装の中で、シャンパンでも飲みますか、と経康に訊かれたときは、まだ未成年ですから、と早百合は慌てて手を横に振った。
 そんな早百合の言葉と仕草に、早百合さんは面白い人ですね、と経康は再び微笑んだ。
 その日は、レナード・バーンスタインが自作の『ウェストサイド・ストーリー』を指揮するのを早百合は愉しみにしていたのだけれど、バーンスタインは見るからに体調が悪そうで、その曲に限って、彼の弟子という日本人の青年がタクトを執った。
 会場からは、失望と怒りの入り混じった声も聞かれたが、コンサートのあとに入った喫茶店でも、経康はそのことに一切触れようとはしなかった。
 ただ、
「最初に演奏されたブリテンの『ピーター・グライムズ』にしても、『ウェストサイド・ストーリー』にしても悲劇ですよね。概してフィクションというものは、バッドエンドはバッドエンド、ハッピーエンドはハッピーエンドで閉じられてしまいがちなんだけど。僕は、どうしてもその先のことを考えてしまうんですよ。悲劇のあと、喜劇のあとに取り残された登場人物たちのことを」
という経康の言葉を、早百合は今でも覚えている。
 それから、経康に誘われて何度かデートをし、彼の自宅を訪ねたこともあった。
 経康だけではなく、元外交官の彼の父親も、私だって平民の家の出なんだからと笑う彼の母親も、思っていた以上に気さくな人たちだったのだが、屋敷の中にある弁財天の社が、中高とクリスチャン系の女子校に通った早百合には、どうにも禍々しくて仕方なかった。
 あれだけは、潰せなくってね。
 早百合の僅かな表情の変化に気付いたのだろう、経康の父は申し訳なさそうにそう言うと、パイプの煙を燻らせた。
 結局、世界の違いが大きかったのか、一年半ほどして二人はどちらからともなく疎遠となってしまった。
 早百合と経康は清い関係のままだった。
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by figarok492na | 2016-04-07 10:14 | 創作に関して

犬神家の末裔 第1回

 禍福は糾える縄の如し、というけれど、何が禍で何が幸福なのかは、結局長い歳月を経てみないとわからないものだと早百合は思った。
 四十を二つか三つ過ぎたばかりで父は亡くなってしまったが、その後に起こった様々な出来事を考えてみれば、もしかしたらそれで父にとっては幸せだったのかもしれない。
 いや、傾きつつある家業をなんとしても守ろうとして、無理に無理を重ねた結果があの急な病だったのかもしれず、そういえば亡くなる直前の白髪が増えて目の下に深い隅のできた父の顔は、実際の年齢よりも十以上老けて見えたものだった。
 そんな父や、黙って父に従う母の姿を目にするのも辛くて、早百合はなかなか帰省しようとはしなかった。
 一つには、バブルの残り香のするシティライフとやらの一端を享受していたことも小さくはなかったが、それより何より、地方特有のねっとりと絡みつくような湿った雰囲気が、早百合はたまらなく嫌だったのだ。
 特に、かつて早百合の実家は、彼女が生れた地方では指折りの財閥として知られていた。
 しかも、半世紀近く前の話とはいえ、その一族では遺産相続に纏わる複雑な人間関係の末に、殺人事件が起こったりまでもした。
 実際、早百合の祖父母はその事件の中心人物でもあった。
 だから、と言うよりも、父方の姓があまりにもおどろどろしく、かつ有名であることもあって、早百合は母方の姓である小林をずっと名乗っていたほどだ。
 今朝早く、母が倒れたと叔母から電話があったとき、早百合はわけもなく、ずっと後回しにしてきたつけを払うときが来たのだという想いにとらわれた。
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by figarok492na | 2016-04-06 16:33 | 創作に関して

花は花でもお江戸の花だ(文章の訓練)

☆花は花でもお江戸の花だ 弦太郎八番勝負より(文章の訓練)


 鵜野部左文字町を抜けて西厳寺の前を通り、刈沢の材木置き場に来たところで、矢沢弦太郎はやはりなと思った。
 振り返れば、すぐに気付かれる。
 弦太郎は何気ない調子で下駄の鼻緒を直すふりをすると、一目散に駆け出した。
 たったったったっ、と弦太郎を追い掛ける足音がする。
 脚力には相当自身のある弦太郎だったが、向こうもなかなかの走りっぷりのようだった。
 仕方ない、ここは荒業を使うか、と二ツ木橋のちょうど真ん中辺りで、弦太郎はえいやとばかり水の中に飛び込んだ。

「無茶ですよ、弦さんも」
 ありったけの布団やら何やらを頭の上から押し被せたおもんが、甘酒の入った湯呑みを弦太郎に手渡した。
「春ったって、花はまだ三分咲き。風邪でもひいたらどうするんです。あたしゃ、殿様に合わせる顔がありませんよ」
「そうやいのやいのと言われたら、それこそ頭が痛くなってくる」
 弦太郎はふうふうと二、三度息を吹きかけてから甘酒を啜った。
 甘酒の暖かさと甘さが、芯から冷え切った弦太郎の身体をゆっくりと解き解していく。
「で、誰なんですよ」
「そいつはまだわからねえ。ただ」
「ただ」
「髭田の山がな」
「髭田の山って、それじゃ白翁の」

 前の側用人高遠摂津守頼房は齢六十にして職を辞すると、隠居所と称する髭田の小ぶりな屋敷に居を移し、自ら白翁を号した。
 だが、髭田の屋敷には、幕閣や大商人たち、それに連なる者たちが、白翁の威をなんとしてでも借りんものと連日足を運んでいた。
 世にいう、髭田詣である。

「流石は掃部頭の息子よの」
 西海屋より献上された李朝の壺のすべすべとした手触りを愉しみながら、白翁は微笑んだ。
「御前、如何いたしましょう」
「慌てることはない、様子を見るのじゃ。急いては事を仕損じるというではないか」
「はっ」
 白翁の言葉に頷くや否や、目の前の男はすぐさまその場を後にした。
 白翁は、なおも白磁の壺を撫で続けた。
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by figarok492na | 2016-04-06 10:54 | 創作に関して

内田秋子のこと

 早いもので、演劇界の友人内田秋子が亡くなって、かれこれ十五年が過ぎようとしている。
 良くも悪くも俺が俺が我が我がの自己顕示欲が欠かせないこの世界で、彼女はあまりにも臆面があり過ぎる俳優であり、企画者だった。
 まるでクマノミか何かのように稽古場の隅に潜んで「通し」の進行を見つめる彼女の姿を、私はどうしても忘れることができない。
 そんな性分が災いしてか、嫌な想いをさせられることも少なくなく、学生劇団時代以来の友人で恋人でもあった日根野貴之など、「あんなだから秋は損をするんですよ」と憤然とした口調で、しかし彼女には絶対に聞かれることのない場所で度々こぼしたものだ。
 本来ならば、彼女と日根野の鍛錬研鑚の場所として始まったトランスクリプション(最初は久松のアトリエ・スキップだったのが、最後には輪多の市民劇場で開催されるまでになった)が、回を重ねるうちに先輩たちの芸の見せ場になってしまったのにも、当然内田秋子の人柄、性根の良さが関係しているのではないか。
 チェーホフの『ワーニャおじさん』をやるとなったとき、ソーニャをやらせろソーニャをやらせろと壊れたレコード・プレイヤーの如く繰り返した車戸千恵子に向かって、「大根役者が恥を知れ」と叱りつけて大もめにもめたことが今では懐かしい。
 その車戸千恵子も、内田秋子が亡くなった次の年に自動車事故で亡くなってしまった。
 内田秋子にとって最後の舞台となった、ブレヒトの詩による一幕物『どうして道徳経はできたのか もしくは、老子亡命記』で、どうしても童子の役をやりたいと言ったときは、まさか病魔に侵されているとは思ってもみなかったので、ようやく彼女も我を張るようになったと私は大いに喜んだほどだ。
 確かに、出たいと意地を通しただけに、あの作品での彼女の熱の入れようは半端なかった。
 臼杵昌也の老子、布目進の税関吏、牛尾舞の税関吏の妻と伍して、彼女は童子の役を演じ切った。
 中でも、税関吏に対して、
「水は柔軟で、つねに流れる、
 流れて、強大な岩に時とともにうちかってゆく。
 つまり、動かぬものがついに敗れる」
と、師匠の老子の教えを語るときの軽みがあって柔らかで誇らしげな言葉と表情は、内田秋子という演技者の最高の場面だったと評しても過言ではない。
 水はつねに流れる、といえば、彼女は井深川の川べりに佇んで、長い時間水の流れを見つめているのが好きだった。
 なんだか動かぬものばかりが目につく今日この頃だけれど、こういうときにこそ、あの日の彼女の台詞を、もう一度思い起こしたいと思う。
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by figarok492na | 2016-04-05 22:19 | 創作に関して

個人創作誌『赤い猫』第4号刊行延期のお知らせ

 6月末までの刊行を予定していた『赤い猫』第4号ですが、諸般の事情から刊行を延期させていただくこととなりました。
 お問い合わせをいただいた方々をはじめ、皆様方にはご迷惑をおかけしますが、何とぞご容赦ご寛容のほどよろしくお願い申し上げます。

 なお、 お問い合わせ等に関しては、こちらまでご連絡いただければ幸いです。
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by figarok492na | 2011-12-31 23:35 | 創作に関して

5月の創作活動予定

 1:『Kiss for Two』
 『Kiss for Two』は、1950年代のアメリカを舞台とした一幕物の二人芝居。
 いわゆるスクリューボールコメディの執筆を試みたものだが、出来はいまいち。
 それでも、5月中に読み直し手直しを終えて、某所に送付してみるつもり。


 2:『山中貞雄餘話』
 ここのところ、ちびちびと書き続けて来たこの小説も、なんとか先が見えてきた?
 が、予想していたよりも短くなりそうで、ちょっとこれは拙い。
 水増しするわけにもいかないし。
 ううん、参った。
 いずれにしても、5月中に第一稿を完成させたいのだが。


 3:『魔王』
 伊坂幸太郎作品と題名がだだかぶり。
 けれど、執筆したのは僕のほうが先なのですよ。
 前々から、挿入部分の出来の悪さが気になっていたため、思い切って改作に挑んだのだけれど、いやはや難航難業。
 完成は7月以降になるのではないか…。


 4:『告悔』
 『不在証明』の姉妹篇(兄妹篇?)となる作品。
 が、アイデアを少し考えただけで、未だ海のものとも山のものともつかず。
 プロット程度は考えておきたいところ。
 まいてまいて。


 まあ、やるべきことをどんどんやっていけってことですね。
 頑張らなくては!
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by figarok492na | 2010-05-09 18:16 | 創作に関して