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梓弓

 伏線を張ることは、創作者にとって、とても大切な作業の一つである。
 個人の感情の変化であれ、社会的に大きな事件事故であれ、それを読者に納得させるためには、それに相応しい伏線、鍵となる何かが必要とされる。
 少なくとも、物語のおしまいになって、とってつけたような説明台詞を重ねることだけは、避けなければと思う。

 また、そうした作品の主筋以外でも、張りに張られた伏線が、ラストでぱっと解き明かされ結びつく心地よさは格別だろう。
 むろん、主筋を忘れて、脇道に迷い込むような真似は忌むべきだが、遊びの伏線一つない作品は、残念ながら息苦しくって面白味に欠ける。
(一番度し難いのは、伏線らしきものを見せておきながら、ほったらかしのままで作品が終わってしまうことだ。読み手に不満を残すという点だけで、そういう作品は傑作・名作とは呼べない)

 そういえば、現実社会でも、事ここに到るまでにはきちんと伏線が張ってあったんだ、と感じることがある。
 また、今後の展開がすぐに読めてしまうような、ばればれの伏線を目の前にすることもある。
 実は、つい最近も身近でそんなことがあったのだけれど、そんな間抜けな伏線にはだまされたくないし、そんな間抜けな伏線など張りたくもないと痛感した。

 張るなら、しっかり張らなくちゃ!
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by figarok492na | 2007-02-28 14:36 | 創作に関して

『寄席放浪記』を読みながら

 色川武大の『寄席放浪記』<河出文庫>を読み進めている。
 僕も、落語をはじめとした寄席で繰り広げられるあまたの藝は大好きで、実際子供の頃には落語家になりたいと思いつめた時期さえあったほどなのだけれど、それでも色川さんの熱の入れようには、ほとほと舌を巻く他ない。
 それは、ある意味、「偏執」とさえ呼びたくなるような狂気を感じるものだ。
(小林信彦や筒井康隆にも、「それを」感じる時がある)
 残念ながら、僕にはどこかでそうした狂気にのめり込むことを恐れる何かが働いているような気がする。
 少なくとも、藝や藝人たちの世界に適度な距離をとっておこうという意識が強固に存在する。
 果たして、そんな人間が、例えば、落語についてや演劇について、映画について、偉そうな言葉を口にしていいのか。
 そして、そんな人間が、人の心を動かすような作品を生み出すことができるのか。
 これまで何度も重ねてきた自問を、また繰り返している。
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by figarok492na | 2007-02-26 12:58 | 雑感

他人のそら似

 と、言ってもミシェル・ブランが主演したフランス映画の話ではない。
(そう言えば、この映画はハリウッドでリメイクされる云々かんぬんとか喧伝されていたが、結局どうなったんだろう。諧謔精神と反骨精神がこの作品の根底にはあったはずで、それがなくなりゃ、気の抜けたあちゃらかに過ぎないだろうに)
 コリン・デイヴィスの指揮するモーツァルトの序曲集のCDを聴いていて、ふとこの言葉が頭に浮かんできたのである。

 コアなクラシック音楽好きな方なら、もしやあれかと、お気づきかもしれないが、この序曲集には、モーツァルトの初期の歌芝居『バスティアンとバスティエンヌ』の序曲も収められている。
 実は、この曲の音型が、ベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」の第1楽章のおなじみの主題に非常にそっくりで、ベートーヴェンがこの『バスティアンとバスティエンヌ』に接する機会があったかどうかがしかとはわからなかったこともあって、「他人のそら似」という言葉を使ってみたくなったのだ。
 まあ、音楽の世界においても「常套句」的な旋律・音型が慣用されていた時代ということもあり、何も敵の首をとったみたく大はしゃぎすることでもないのではあるけれど。
(だいいち、二つの作品で描かれていることの「違い」はあまりにも明瞭だし)

 それに、よくよく考えてみなくても、今の世の中にだって「他人のそら似」はごまんとある。
 てか、モーツァルトやベートーヴェンの時代から200年以上、音楽的にありとあらゆることが試されてきたのだ。
 どれだけ真似をすまいと頑張ったところで、どこかで何かに似てくるのは仕方のないことだろう。
 要は、自分がそんな時代に生きているということをきちんと踏まえておくことだと、僕は思う。
 商業主義もろだしの「ぱくり」常習者は度し難いが、自分に特殊なオリジナリティーが備わっていると思い込んで「他人のそら似」を量産し続けている自称天才にも困ってしまう。
 他人から見れば自分も他人、「自分は自分であって、自分ではない」という意識が必要なのではないだろうか。

 ところで、しょっぱなの話に戻ると、現代におけるリメイクって作業はどう評価すべきなんだろう。
 再創造なんて言葉を使えば、なんだかえらくかっこうがいいんだが…。
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by figarok492na | 2007-02-22 12:00 | 雑感

冬の旅(CDレビュー)

 ☆シューベルト:歌曲集『冬の旅』
  クリスティアン・ゲルハーエル(バリトン)
  ゲロルト・フーバー(ピアノ)
  2001年録音
  <ARTE NOVA>74321−80777−2

 『冬の旅』といえば、どうしてもディートリヒ・フィッシャー=ディースカウも一連の録音が耳の奥にこびりついていて、その後に発売されたバリトン歌手の『冬の旅』のCDには、ついつい彼の影を見てしまうのだが、このゲルハーエルの歌唱にも、やはりフィッシャー=ディースカウの強い影響を感じる。
(てか、ゲルハーエルはフィッシャー=ディースカウにも学んでいたのだった)
 ただ、ゲルハーエルが単なるエピゴーネンに終わっていないのは、フィッシャー=ディースカウ譲りの繊細で鋭敏で丹念なテキストの読み込みとともに、暖かく清潔感に満ちた声の魅力を彼が持っているからではないだろうか。
 いずれにしても、よく考え抜かれ、よく歌い抜かれた演奏だと思う。
 中古で、税込み357円で手に入れたCDだけれど、たとえフルプライスだったとしても強くお薦めしたい一枚だ。

 ところで、斎藤晴彦と高橋悠治の『冬の旅』が聴きたいなあ。
 関西では、公演はないのかなあ。
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by figarok492na | 2007-02-19 12:17 | クラシック音楽

物は考えよう?(CDレビュー)

 ☆モーツァルト:序曲集
  コリン・デイヴィス指揮シュターツカペレ・ドレスデン
  1998年録音
  <RCA>82876 76235 2(再発盤)

 今日購入したばかりの、コリン・デイヴィス指揮シュターツカペレ・ドレスデンの演奏による、モーツァルトの序曲集のCDを聴く。

 正直言って、冒頭の『フィガロの結婚』序曲を聴き始めた時は、あれっ「外れ」かなと思ってしまった。
 と、言うのも、最近流行のピリオド奏法を援用した解釈に慣れた耳には、この演奏があまりにも微温的に感じられたからだ。
(どこかもやもやとした録音、というか、リマスタリングも大きく災いしている)
 で、続く、『バスティアンとバスティエンヌ』、『劇場支配人』でもその印象はあまり変わらなかったのだが、4曲目の『ルーチョ・シッラ』あたりから、「おやこれは」と思えるようになってきた。
 コリン・デイヴィスは、表層的な激しさを求めるのではなく、モーツァルトの音楽の持つ多様な側面のうち、負のエネルギーを丹念に描き込もうとしているのではないかと感じられたのだ。
(特に、そうした趣きは、後半の『イドメネオ』や『皇帝ティートの慈悲』、『ドン・ジョヴァンニ』、『魔法の笛』などに強く表れているのではないか)
 むろん、かつてイギリスのオーケストラと録音した同種の序曲集<EMIレーベル>と比較すれば一聴瞭然のように、コリン・デイヴィスの老いがこの演奏に少なからぬ影響を与えていることも確かな事実で、そうした点も含めて、大きく好みが分かれるかもしれないと思う。

 様々なモーツァルト演奏に親しんだ方にこそお薦めしたい一枚だ。
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by figarok492na | 2007-02-17 18:44 | クラシック音楽

誰にでも得手不得手はある(CDレビュー)

 ☆ブラームス:交響曲第2番、悲劇的序曲
  ベルナルト・ハイティンク指揮ボストン交響楽団
  1990年録音
  <PHILIPS>432 094−2

 昨日購入した、ベルナルト・ハイティンク指揮ボストン交響楽団の演奏による、ブラームスの交響曲第2番と悲劇的序曲のCDを聴く。

 ハイティンクとボストン交響楽団のブラームスといえば、許光俊のいう「百貫デブがおどけているような」ダサさ(『クラシックCD名盤バトル』<洋泉社新書y>より)の体現、とでも評したくなるような交響曲第1番のCDをすでに持っているが、こちらは作品が作品だけになかなか堂に入った演奏に仕上がっていると思う。
 特に、たっぷりと時間をとって悠然とした音楽を生み出した第1楽章などは、個人的には好感が持てる。
(ブラームスの交響曲第2番の第1楽章は、僕の大好きな音楽の一つなのだ)
 一方、悲劇的序曲には、ところどころ第1番に通じる重たさを感じた部分もなくはないが、基本的にはスケールが大きくまとまりのよい演奏になっているのではないだろうか。
 中古で、税込み1200円程度までなら、安心してお薦めできる一枚だ。
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by figarok492na | 2007-02-12 19:24 | クラシック音楽

絢爛豪華じゃあるけれど(CDレビュー)

 ☆ムソルグスキー:『展覧会の絵』(ラヴェル編曲)、『はげ山の一夜』
  リカルド・ムーティ指揮フィラデルフィア管弦楽団
  1990年録音
  <PHILIPS>432 170−2

 今日購入した、リカルド・ムーティ指揮フィラデルフィア管弦楽団の演奏による、ムソルグスキーの組曲『展覧会の絵』(ラヴェル編曲)と交響詩『はげ山の一夜』の入ったCDを聴く。

 一言で言って、絢爛豪華、ドラマティックでエネルギッシュ、パワフルな演奏だと思う。
 リカルド・ムーティの骨太な音楽づくりは相変わらずだし、フィラデルフィア管弦楽団も技術的にはほぼ問題のない仕上がりになっている。
 ただ、無理を承知で比べるならば、例えば、チェリビダッケとミュンヘン・フィルの演奏が持つような、作品に対する繊細で鋭敏な読み込みはあまり感じられない。
 まあ、力強く威勢のいいオーケストラ演奏を愉しみたいむきには、安心してお薦めできる一枚だ。

 ところで、これは余談だけれど、国内盤のブックレットの表紙がムーティのポートレートだったのに対し、こちら輸入盤のほうは、モダアンを装った、その実ポンチ画すれすれのイラストが使用されている。
 なんとも趣味が悪い…。
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by figarok492na | 2007-02-11 20:58 | クラシック音楽

どうやら花粉症だな、こりゃ(CLACLA日記)

 どんよりとしたお天気。

 寒さは、そこそこに厳しい。

 今日は、アルバイトがお休み。
 少しだけ朝寝坊を愉しむ。

 で、休日恒例の部屋の掃除、浴室・トイレの掃除、加えてキッチンの掃除をやっつける。

 昼過ぎ、外出する。

 ポコ・ア・ポコをのぞいてから、京都文化博物館へ行き、伊藤大輔監督の『地獄花』を観る。
(詳しくは、本家CLACLA日記の記事をご参照のほど)

 上映終了後、特別展と常設展も観ておいたが、個人的には、断然常設展(ひな人形を中心に展示されていた)をとる。
 特別展のほうは、京都府の新進気鋭のどうたらこうたらというものだったが、正直言って、ちっとも満足できなかったのだ。

 歩いて、河原町に出る。
 紀伊國屋書店、アビス、ビブレ、ユニクロ、ライトオン、BAL(ジュンク堂、無印良品)、タワーレコードとまわったが、これはというものはなし。

 高島屋地下の「ヴィタメール」で、税込み210円のムッシュー(うええ…)というシュークリームを購入し、帰宅後食す。
 パイ系のさくっとした生地と、上品で甘さの効いたカスタードクリームで、なかなか美味しかったものの、個人的には、「ベスト」とは言えず。
 ごちそうさま!

 NHK・FMのベスト・オブ・クラシックで、ヴァレリー・ゲルギエフ指揮ウィーン・フィルの演奏による、ショスタコーヴィチの交響曲第4番のライヴ録音を聴く。
 聴き応え充分なドラマティックでエネルギッシュな演奏で、大いに満足のいく放送だった。
(他に、ジョルジュ・プレートルの指揮による、リヒャルト・シュトラウスの『ばらの騎士』組曲も放送されていた)

 続けて、フェリシティ・ロットらの歌う『ばらの騎士』のCDと、ルネ・フレミングらの歌う『ばらの騎士』のCDを聴く。

 『日本の歴史・30 十五年戦争』を読み進める。

 『私の青空』の下書きとワープロ打ちを行う。
 ようやく、原稿用紙に換算して6枚分になる。

 そろそろ民主党がらみの大スキャンダルが発覚するのでは?
 どうにもそんな気がしてならないのだが。

 朝から、時折くしゃみを連発してしまう。
 鼻づまりも続いているし、どうやら花粉症だな、こりゃ。
 うんざり。

 明日がいい日でありますように!
 それじゃあ、おやすみなさい。
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by figarok492na | 2007-02-08 22:03 | CLACLA日記

らくごくらく

 寝る前、『ラジオ深夜便』の演芸特選で落語を聴く。
 先年亡くなった桂文治の『浮世床』は、子供の頃から親しんでいた文治師匠だけに、ああ、この人の生の落語ももう聴けないんだなあ、とちょっぴりさみしくなったが、まあこれはいくら言っても仕方がない。
 聴きものだったのは、後に放送された三代目春風亭柳好の『廿四孝』である。
 四代目のどこかねっちゃりもっちゃりした語り口も悪くはないが、個人的には、この三代目の歯切れがよくてリズミカルでテンポ感のよい噺っぷりに、大きく軍配を挙げたいところだ。
 今回の『廿四孝』も、結構はしょってやられていたのに、それが全く気にならないどころか、かえってするするすとんと決まってしまう。
 あまりの面白さに、すっかり目が冴えてしまったほどだった。
 今度、三代目春風亭柳好のCDを買おうかな。
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by figarok492na | 2007-02-08 12:00 | 雑感

なるようになるためには

 数日前の晩、あまり体調がかんばしくなかったので早めに寝床に潜り込んで『ラジオ深夜便』を聴いていると、思わず苦笑してしまいそうになったことがあった。
 と、いうのも、
「今年は暖冬ということもあって、稲作をどうしていくか非常に悩む。気象庁の長期予報もそれほどあてにならないし、つまるところは村のお諏訪さん(神社)の神事(占い)を参考に、自分の勘で決めるしかない」
といった、東北地方の農家の人のレポートがあった後に、何と『ケ・セラ・セラ』が流されたからである。
 だって、『ケ・セラ・セラ』=どうなるかわからない=なるようになるさ、だもの。
 こんな「皮肉」な選曲はありゃしない。

 ちなみに、『ケ・セラ・セラ』といえば、アルフレッド・ヒッチコックの『知りすぎていた男』の中でドリス・デイが歌って大ヒットした曲で、日本でもペギー葉山がカバーして、これまたヒットしている。
 また、小林信彦の『現代<死語>ノート』<岩波新書>にもあるように、1957年頃、いわゆる流行語として日常会話でも広く使われていたらしい。

 そういえば、ずいぶん前に、今は亡き渡辺美智雄という政治家(今、息子が大臣をやっている)が、ブラジルかどこかの中南米の国を「(借金を返さなくても)ケ・セラ・セラ、あっけらかあのかあだよ」と馬鹿にしたことがあったっけ。
 最近世情を賑わす柳沢厚生労働大臣じゃないけれど、この国の政治家(特に保守党の)思考回路は二十年一日ちっとも変わらないなと情けなくなる反面、当時は他国のことをとやかく言えた時代でもあったのだなあ、ともついつい思ってしまう。
 なにせ、森内閣以降、小泉、安倍と、それこそ何でもかんでもやりたいほうだいの言いたいほうだい、ケ・セラ・セラ、あっけらかあのかあだよ的な政権が続いているのだ。
 まずは、自分の頭の上の蠅を追わなくちゃ。

 そうそう、よくよく考えたら、ドリス・デイが『ケ・セラ・セラ』を歌っていたのは、非常にシリアスなシーンだったんだ。
 その点から言えば、『ラジオ深夜便』の選曲は、あながち「皮肉」なだけのものとも言えないかもしれない。
 って、これは考え過ぎかな。
 いずれにしても、『ケ・セラ・セラ』と口にできるのは、やるべきことをきちんとやってからではないのだろうか。
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by figarok492na | 2007-02-07 23:17 | 雑感