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悲愴と皮相の間に(CLACLA日記)

 今回の総選挙の結果に万歳の声を上げている人もいれば、政権交代に不安を抱く人もいる、はてはこれで日本は終わった、この国は地に落ちたと嘆き悲しむ人もいる。
 人は千差万別。
 様々な考えがあってしかるべきだし、またそうでないとおかしい。
(ただし、この国が終わったと言うのであれば、少なくとも小泉内閣時代のやりたい放題を許容したときからそう言うべきであり、自公連立政権に対する一切の批判なしにその言葉を繰り返すのは、枕も筋の運びもないままにサゲだけ口にしてこれが落語でございとのたまっているのと同じことのような気がする)
 で、僕自身はといえば、自民公明連立政権の退陣には喜びつつも、民主党が政権の座に就いたからといって基本線では大きな変化がない、残念ながらこれでこの国の諸状況が(すぐさま)よい方向へ向かうとは思えない、というのが正直な感想である。
 短期的に考えれば、衆議院の比例区の廃止が他の重要な問題とともに(それを押しのけて?)議会運営の大きな議題とされるだろうし、鳩山由紀夫代表自身のそれを皮切りに、民主党代議士陣の大小様々なスキャンダルが取り沙汰されたりもするだろう。
(正直、前回の選挙の際の自民党と同様、本来当選すべきでないような人物も当選しているような気がするし)
 加えて、突発的な「テロ」にも注意が必要かもしれない。
 また、中長期的には、政権の行き詰まりと民主党の分裂が危惧されるし、そうした中で政界再編がこれまた他の重要な問題とともに(それを押しのけて?)大きな課題となってくるかとも思う。
 いずれにしても、個人的にはオプティミスティックな観測を持つことはできないのだけれど、しかしながら、もしそうした状況が起こるとすれば(しても)それは、結局のところ自分自身の責任、自己の責任でもあるとも、僕は考える。
 と、言っても、「お前の悲劇はお前自身のせい。俺の知ったこっちゃない」といった小泉内閣時代に持て囃された自己責任論を振りかざしたいのでは毛頭ない。
 現実の諸状況に、いささかでも目を見張り耳をすませ、大きな声に呑み流されるのではなく、踏み止まって自分自身の判断を重ねていくことが、これからますます必要になってくるはずだと、僕は言いたいのだ。
 そして、これから僕(ら)に求めらるスタンスは、ただただ悲嘆詠嘆し、大仰な言葉を口にし続ける「悲愴」でもなく、逆に斜に構えて、全てをニヒリスティックに解釈する「皮相」でもない(なぜなら、結局はいずれもコインの裏表に過ぎないから)、その間のものであると、僕は強く思う。

 衆議院の比例区の廃止そのものは、僕自身あまり賛成ではないのだけれど。
 でもさあ、武部や町村、中川、そして小泉百合子らの復活当選を目の当たりにすると、「なんでだよ!」という気になっても仕方ないなあ、と思ってしまうなあ。
 それにしても、小泉百合子って、本当に節操がないなあ。
 厚顔無恥もいいところだ。


 選挙結果が一段落着いたこともあり、深夜、ネットラジオでハリー・クリストファーズ指揮グラナダ市管弦楽団のコンサートのライヴ録音を途中から聴く。
 バッハのブランデンブルク協奏曲第3番とハイドンの交響曲第99番を聴いたが、いずれもピリオド奏法を援用した演奏が行われていた。
 ただ、クリストファーズ自身の解釈にオケの力量もあってか、ハイドンでは若干「もっささ」を感じたことも事実である。
(余談だけれど、以前調べた感じでは、このグラナダ市管弦楽団のほか、最近来日したビルバオ交響楽団やセビーリャ王立交響楽団、ガリシア交響楽団、ガリシア・フィル、オビエド・フィルといったスペインの地方オーケストラは、なかなか充実した演奏活動を行っているようだ)

 風邪をひいてしまったのか(寝冷え?)、喉、気管支の調子が少しおかしい。
 やれやれ。
(新型インフルエンザでなければよいが…)

 『プンティラ旦那と下男のマッティ』を読み終え、『ブレヒト戯曲全集第5巻』<未来社>を読了した。
 物事を隠蔽する側に加わるか、そうでない立場をとり続けるか、そのことが厳しく問われる状況ということもあって、刺激を受けるところ非常に大だ。
(って、社会主義や共産主義を支持してるわけじゃないんだけどね)

 『汽車との散歩』を読み進める。

 クリストファー・ホグウッド指揮アカデミー・オブ・エンシェント・ミュージックの演奏した、ハイドンの交響曲第77番&第76番のCDを聴く。
 中断した、デッカ=オワゾリールの交響曲セットに含まれているものではなく、BBCミュージックマガジンの付録となっていたもの。
 やっぱり、ハイドンの交響曲は聴いていて愉しいや。

 体調もあって、今日は17時台に夕飯用の買い物に出かけた程度。
 部屋の中ではそれほどでもないが、外に出ると、けっこう涼しげな風が吹いていることがわかる。

 夕飯後、思うところあって、『チェーホフ全集 11』<ちくま文庫>所収の『三人姉妹』をつまみ再読する。

 8月の創作活動に関して総括を行う。

 ネットラジオで、エミール・タバコフ指揮ブルガリア放送交響楽団の演奏した、ドヴォルザークの交響曲第8番のライヴ録音を聴く。
 威勢はいいが、たがが外れているというか、やたらと前のめりで騒々しく、肌理の粗い演奏。
 あまり好みではない。

 今日は、甘いものは食さず。

 今日で8月も終わり。
 明日がいい日でありますように!
 そして、9月がいい月でありますように!
 それじゃあ、おやすみなさい。
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by figarok492na | 2009-08-31 21:33 | CLACLA日記

1994年1月29日(欧州音楽日記12)

 ☆ケルンWDR交響楽団定期演奏会

  指揮:ハンス・フォンク
 管弦楽:ケルンWDR交響楽団
  会場:ケルン・フィルハーモニー


 昨日の定期(アボネメントA)はウィーン行きのため聴き逃したが、今日、アボネメントB、ケルンWDR交響楽団Extra4というコンサート*1で、ケルンWDR交響楽団を聴いた。
 プログラムは、昨晩と同じで、前半がストラヴィンスキーの管楽器のためのシンフォニーとバレエ音楽『ミューズの神を率いるアポロ』、後半がハイドンの第91番のシンフォニーという興味深いもの。
 管楽器だけの曲、弦楽器だけの曲、そして弦楽器と管楽器の調和が必要とされるハイドンのシンフォニーという、オケの力が試されるプログラムといえるのではないだろうか?
 指揮は、常任のハンス・フォンク。

 まず、管楽器のためのシンフォニー。
 『春の祭典』を思い出させるようなメロディーも含まれている。各々の管楽器の組み合わされた響きを楽しむ曲だと思う(楽しめるかどうかは?だが)。
 WDRの各奏者は、技術的に優れているようだが、音のまとまりとしては、少しだけ気になる(音が重ならなかったり)。
 これは、作品のせいだけではないと思う。

 二曲目は、弦楽器だけの『ミューズの神を率いるアポロ』。
 新古典的様式などという教科書的な説明は抜きにして曲の印象を言うと、聴きやすい音楽。メロディーもロシア民謡のフレーズやチャイコフスキーとの関係がうかがえ、当時のヨーロッパのポップス、アメリカのジャズなどの影響も表われていて、それだけに一つ間違うと俗っぽくなってしまうかもしれない。
 今日のWDRの演奏は、なかなか良かった。弦の音がきれいだ。この曲には合っているかもしれない。
 それと、コンサートミストレスの四方女史*2のソロは聴き応えがあった。完璧とはいかないだろうけれど、厚みのある美しい音を奏でていた。

 休憩後は、ハイドンのシンフォニー。
 ヴァイオリン8以下略で、それほど大きな編成ではないのだが、管楽器の数が少ないのと打楽器がないせいで、どうしても弦が多勢に見える。
 座ったところもそういう場所だったかもしれないし、弦が頑張っていたせいかもしれないけれど、第1楽章や第3楽章では、威勢の良さが耳についた。
 第2楽章、アンダンテのファゴットのソロは名演。小粋だった。
 第3楽章、ホルンのソロは、少々無粋。
 フィナーレの軽快さは買うが、弦の鳴り方は、あまりにも機能的過ぎなかっただろうか?
 聴くほうの勝手我儘かもしれないけれど、ハイドンの交響曲というのは難しい。
 ウィーン・フィルなら「ああ、なるほど」と納得してしまうのかもしれないけどね。



1:本来はもっと丁寧な訳し方をするべきなのだろうが、アボネメントという言葉もついているので、タイトルでは定期演奏会と訳した。

2:四方恭子。当時は女史と記したが、今は敬称略にするか、敬称として氏をつけるだろう。
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by figarok492na | 2009-08-31 12:32 | 欧州音楽日記

総選挙の日(CLACLA日記)

 今日は、衆議院総選挙の投票日。
 浴室とトイレの掃除をすませたのち、僕も15時過ぎに近くの投票所まで足を運び、投票を行う。

 その後、そのままウィングス京都へ行き、図書情報室で宮脇俊三の『旅は自由席』<新潮文庫>を返却し、同じく宮脇俊三の『汽車との散歩』<同>を借りる。
 それから中京青少年活動センターをのぞき、京都芸術センターでいくつか用件を片付け、ついでに夕飯用の買い物をすませて帰宅した。

 今日はそのほか、午前9時過ぎに近くのスギ薬局までセールのお米を買いに行ったりもした。

 『ブレヒト戯曲全集第5番』を読み進める。
 『プンティラ旦那と下男のマッティ』を読み進めているが、これまた実に面白い。
 面白い面白い。

 欧州音楽日記11(前回の記事をご参照のほど)の、PCへの打ち込み作業を行いながら、ジョン・エリオット・ガーディナー指揮イングリッシュ・バロック・ソロイスツ他の演奏したモーツァルトの歌劇『クレタの王イドメネオ』全曲<Archiv>から第1幕を聴く。
 欧州音楽日記11で取り上げた、コリン・デイヴィス指揮によるウィーン国立歌劇場での公演に比べ、オーケストラ、合唱、そして歌手陣ともにクリアでシャープな演奏だと思う。
そういえば、イダマンテを同じくオッターが歌っていることもあってか、ウィーン国立歌劇場の公演プログラムに、このCDの広告が掲載されていたような気がする。
 それと、このCDは、ヨーロッパを離れる直前に、ケルン最大のCDショップ、SATURN(『レコード芸術』誌の月間ベスト・セラーに毎回登場している)でまとめ買いした、モーツァルトとリヒャルト・シュトラウスのオペラのCDのうちの一つである。

 帰宅後、『汽車との散歩』を読み始める。

 途中夕飯を挟んで、ネットラジオでアラン・ギルバート指揮ベルリン・フィルのコンサートのライヴ録音を聴く。
 ドヴォルザークのチェロ協奏曲とマルティヌーの交響曲第4番が放送されていたが、ドヴォルザークはソロのスティーヴン・イッサーリスともども、若干肌理の粗さを感じてしまった。
 一方、ギルバートの指揮したマルティヌーの交響曲第4番はNHK交響楽団との実況中継を聴いたことがあるのだけれど、オケの力量の高さという意味でも、新古典派的な作風の音楽へのつきのよさという意味でも、今回のベルリン・フィルとの演奏のほうが一層作品を愉しむことができた。
(マルティヌーの交響曲は、もっと実演で取り上げられてもいいのではないだろうか? 関西では今のところプログラムに組まれることはあまりないが)

 で、夕飯後、壊れかけのラジオを「駆使」して選挙速報を聴いているところ。
 民主の圧勝、自民公明の与党惨敗という結果に終わりそうだ。
 とはいえ、要は総選挙後のあれこれである。
 ここからが一番大切なのだ。

 今日の甘いものは、フジパンの白いひとくちあんぱん(5個入)。
 近くのグルメシティで、30パーセント引き、税込み75円だったもの。
 粒あんのしっかり詰まった食べきりのよいミニあんぱんで、まあまあ美味しうございました。
 ごちそうさま!

 明日がいい日でありますように!
 それじゃあ、おやすみなさい。
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by figarok492na | 2009-08-30 21:48 | CLACLA日記

1994年1月27日(欧州音楽日記11)

 ☆モーツァルト:歌劇『クレタの王イドメネオ』公演

  指揮:コリン・デイヴィス
 管弦楽:ウィーン国立歌劇場管弦楽団
  会場:ウィーン国立歌劇場


 久しぶり、と言っても一週間とちょっと。
 再びウィーン巡察を決行した。
 今回は、ウィーン・シュターツ・オーパーの『クレタの王イドメネオ』が目的。
 寝台車を購入したもののほとんど睡眠がとれず、ウィーンについてホテル(ペンション)を予約。着いて、ありゃりゃと思ったが、中に入ってみるとなかなか良いペンションだった。
 ただ、ここの体重計で体重を計って60キロぐらいしかなかったのはショックだった*1。いくらなんでも痩せ過ぎ。ただのストレス…、とかとは思えない。たぶん、何か悪い病気では?*2
 まずは栄養不足とむちゃのし過ぎだろうということ。
 「体重を増やすように」と意気込むとますます悪くなるだろうから…。
 ただ、胃腸が気になる…*3。

 さて、『クレタの王イドメネオ』。
 早めに行ってみたものの、もう行列が出来ていた。
 ただ、思っていたより簡単にシュテー(立ち見)が手に入った。
 1階(PARKETTE)のシュテーで、前の人物がうろちょろするのが困るくらいで、音も良く聴こえるし、舞台も良く見える。

 指揮は、コリン・デイヴィス。
 「中庸」の人というイメージがあって、その音楽は大人しいものと思っていたが、フォルテシモなど強烈だった。
 時折、ウィーン国立歌劇場管弦楽団(ウィーン・フィルの母体)はちょっとしたミスもしたが、弦・管の音ともさすがに素晴らしく、このオケの質の高さを確認した。
 序曲が始まったとたん、他のオペラとは違う雰囲気が漂う(と、自分で思っているだけ?)。
 ただ、アーノンクールの指揮で聴ければ、もっとよかっただろうに、というのは贅沢か?*4

 演出は、ヨハネス・シャーフ。
 コヴェント・ガーデン・ロイヤル・オペラが来日した際、ダ・ポンテ三部作でその鬼才ぶりを発揮した人物。今回も、舞台美術等は、非常に斬新なものだったが、それほど奇をてらったものではなかったと思う*5。
 エレットラのアリアのとき、ペンキでハートを描くのだけは「?」だが、例えば終幕など、イドメネオという人物の内面のエゴイズムと子供への情愛の葛藤が感じ取れた。
 アルバーチェは自殺したが、エレットラがすんでのところで死ななかったのもよい。彼女は死ぬ必要はない(と思う)。

 音楽としては、セリアという様式が難しいのか、途中で帰る人も結構いたが、私は、本当に愉しめた(もちろん、肉体的には疲れたけど)。
 セリアの手法をとっているが、その音楽は、すでにのちのダ・ポンテ三部作に通じるものがある。
 イドメネオの苦悩を表わすアリアや、イリアとイドメネオの二重唱、合唱、イダマンテとイリアの二重唱、イドメネオ、イダマンテ、イリア、エレットラの四重唱、など表面的な音楽というより、登場人物各々の感情、性格がよく浮き彫りにされているのではないだろうか。
 ヴァレスコの台本は、モーツァルトから古臭いと言われたものだが、「人間にとっての愛」というモティーフは、後期の作品につながる重要なテーマだろう*6。
 それと、第一幕で、合唱が「リベルタ(自由)」と歌っている部分がある。
 『ドン・ジョヴァンニ』にもあるが、当時としては、どれほどの意味があったのか興味深い*7。

 さて歌手陣。
 イドメネオは、ジークフリート・イェルサレム。
 ワーグナー歌手として活躍している(いた?)テナー。イドメネオという役には少々くせが強いかも。気品のほうも今一つか?
 情感をこめた歌いぶりだが、拍手は今一つしない。
 と言っても、見事に歌い切ってはいたが。
 イダマンテは、アンネ・ゾフィー・フォン・オッター。
 彼女は良かった。
 最初、大きな声の出し過ぎではと思っていたが、幕を重ねるごとに歌が締まってきたよう。声も美しいし、シュターデが年をとったあとは彼女がズボン役の女王(変な言葉)となるのではなかろうか。
 気品もあった。
 イリアのノルベルク=シュルツは、伸びのある声、そしてまた、美しい声をしている。
 少し背が低いのが難だが、今後活躍するのでは?
 エレットラのコエルホ。あまり好きな声質とは言えないが、コロラトゥーラの難技を一応ものにしていた。最後のアリアは、力で押し切ったと言えなくもないけれど…。
 でも、貴重な歌手だろうとも思う。
 アルバーチェのブルンナーはまあまあ。
 大祭司だけは、なんだかなあ。少々興ざめ。喉に詰まったような声の出し方。しかも、声の出にちょっとしたずれがあった。

 オケが少しミスをしたなどと記したが、これだけの演奏、上演をほぼ年中観聴きできるのだから、ウィーンを羨ましく思う反面、これでよいのだろうかという思いもわずかに。
 それにしても、『クレタの王イドメネオ』は、これだけの面々がそろえば、飽きることなく愉しめる作品なんですねえ!



1:身長が179センチとちょっとだから、これは痩せ過ぎだ。高校時代の80キロオーバーは肥え過ぎかもしれないが…。

2:癌をはじめ、重篤の病のこと。僕は、大学2回生の頃から「自分は癌なのではないか?」と周囲によく口にしていた。それから20年近く経って、僕は痛風を患っている…。

3:以上の部分は本当はカットしたいが、あえてアップすることにした。みったなくてしゃあないけれど、これはこれで記録だしね。

4:このプロダクション(演出等の一セット)のプレミエ時の指揮は、ニコラウス・アーノンクールだった。しばらくして、今回のコリン・デイヴィス指揮の公演の批評を目にしたが、あまり芳しいものではなかった。

5:上述した批評によると、再演に際し、シャーフの演出に大幅な変更(カット?)が加えられたようだ。

6:文章・言葉として不本意だが、そのままにしておく。

7:こうした点に関しては、アンソニー・アーブラスターの『ビバリベルタ! オペラの中の政治学』<法政大学出版局>が詳しいはずだが、5670円というけっこうな値段がすることもあって、未だ読めないでいる。また、『ドン・ジョヴァンニ』中の「リベルタ」といえば、どうしても佐藤亜紀の『1809年 ナポレオン暗殺』<文春文庫>を思い出すが、以前別の形で記したことがあるので、ここでは省略する。
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by figarok492na | 2009-08-30 13:57 | 欧州音楽日記

どんよりとしたお天気だったが、洗濯を決行した(CLACLA日記)

 どんよりとしたお天気ではあったが、明日以降晴れるかどうかわからなかったこともあり、午前10時台に毎週恒例の洗濯をやっつける。
 その間外出し、近くのファミリーマートで保険の支払いをすませ(郵便局が休みだったため)、ついでに買い物もすませる。
 帰宅後、掃除機をかけ、キッチンまわりの拭き掃除もすませた。

 結局、今日は終日どんよりとしたお天気。
 気温自体はそれほど上昇していないようだったが、湿度が高い分過ごしにくく、ついついエアコン(除湿)を入れてしまった。
 まあ、仕方ない。
(夜になって、だいぶん過ごしやすくなった)

 昨夜(日付は今日)、ネットラジオで、イシュトヴァン・ケルテス指揮ハンガリー放送交響楽団のコンサート(1970年)のライヴ録音を途中まで聴く。
 モーツァルトのディヴェルティメントK.136、シューベルトの交響曲第5番と、ブラームスの交響曲第4番の第1楽章までを聴いたが、肌理の粗さや前のめり感がいくぶん気になったものの、その分躍動感にあふれており、生気に満ちた演奏だったと思う。
 個人的には、満足のいく放送だった。

 一方、昼間に聴いた、マーク・エルダー指揮ハレ管弦楽団他の演奏した、メンデルスゾーンの交響曲第2番「讃歌」のライヴ録音は、オケ自体はひとまず置くとして、独唱陣が気に入らず。
 特に、ソプラノの喉の詰まったような声が嫌だ。

 『ブレヒト戯曲全集第5巻』を読み進める。
 『プンティラ旦那と下男のマッティ』を読み始めた。

 『不在証明』の今後の展開について考える。
 『告悔』との兼ね合いもあり、しっかりと細部を詰めておきたいと思う。

 17時台、夕飯用の買い物のため再度外出する。

 夕飯後、福永文夫の『大平正芳』<中公新書>と、林光さんの『私の戦後音楽史 楽士の席から』<平凡社ライブラリー>のつまみ再読をする。
 いろいろと想うところあって。

 今日の甘いものは、スマイルオーブンの粒あんドーナツを食す。
 昨日、グルメシティで税込み69円になっていたものだが、朝兼昼食の一部として食した。
 まあまあ美味しうございました。
 ごちそうさま!

 総選挙の投票開始まで、あとわずか。
 その結果や如何?

 明日がいい日でありますように!
 それじゃあ、おやすみなさい。
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by figarok492na | 2009-08-29 23:00 | CLACLA日記

1994年1月21日(欧州音楽日記10)

 ☆ハンブルク北ドイツ放送交響楽団定期演奏会

  指揮:ジョン・エリオット・ガーディナー
 管弦楽:ハンブルク北ドイツ放送交響楽団*1
  独唱:バーバラ・ボニー
  会場:ハンブルク・ムジークハレ*2


 木棚先生*3にも同行していただいて、ハンブルク北ドイツ放送交響楽団の定期をムジークハレに聴きに行く。
 買ったチケットがどえらいところで、全く指揮者が見えないという恐るべき場所。
 私は、ケルンで鍛えたやり方で1階席に陣取ったが、木棚先生には悪いことをした*4。

 指揮は、たぶん首席か常任指揮者にあたるジョン・エリオット・ガーディナー。
 曲目は、ストラヴィンスキーの『火の鳥』組曲にマーラーの交響曲第4番。
 『火の鳥』は、最初管楽器が音を外したりして「おやおや」と思ったが、フィナーレの弦が一斉に鳴るところなど聴いていて「うん、いい演奏だな」と感心した。
 バレエ音楽という感じもなければ、「ロシア的」な雰囲気(何をもって「ロシア的」というのか?)も感じない演奏だったが。
 それと、シューボックス型のこのホールは、管が時折くぐもって聴こえるよう。
 音自体はそれほど悪くないようだが、ただ見えない場所があるというのはねえ(そりゃケルンにもあるけど…)。
 ケルンにはない歴史の重みを感じる古いホールなのだが。

 木棚先生と少し話をしたりして、休憩が終わる。

 マーラーの交響曲第4番。
 ガーディナーがマーラー!? と思わずにはいられないが、聴いてみて、この4番にかぎり、それは杞憂。
 非常に素晴らしい演奏だった。
 第1楽章、鈴の音が終わって弦が鳴るところから、すーっと演奏に入り込むことができた。擬古典的な弦、木管を中心とした部分と、フォルテシモの部分(特に、第5番の冒頭のファンファーレを予感させるところなど)の色分けがしっかりされていたのではないかと思う。それと、最後ぐらいのホルンのソロが印象的。
 第2楽章では、コンサートマスターのソロ。
 第3、第4楽章は、そのまま続けて演奏される。
 バーバラ・ボニーのソプラノ独唱はこの曲にぴったり(歌詞の内容と添うかどうかはひとまず置くとして)。「天上の声」と言えば言い過ぎだろうけれど、美しく透明感のある声だった*5。
 フィルハーモニアのマーラー*6には「?」だったが、今日は手放しで拍手。
 オケも弦・管ともに素晴らしかった。
 ただ、ガーディナーがマーラーの他の作品を指揮してこれほど楽しめるかどうかはまだ疑問が残るけれど。
 とにかく、このマーラーの4番はよかった。



1:ハンブルク北ドイツ放送交響楽団は、1993年10月20日にケルンで、ギュンター・ヴァントの指揮したブルックナーの交響曲第8番を聴いていた。演奏そのものもそうだけれど、演奏が終わって一瞬の静寂ののち、ほとんどのお客さんがスタンディング・オヴェーション状態になったことと、僕に隣の席を譲ってくれたシャーロット・ランプリングみたいな感じの妙齢の女性が僕に微笑して拍手もしないでホールを出ていったことがとても印象に残っている。なお、ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団やケルン放送交響楽団との長年の活動でもわかるように、ギュンター・ヴァントという指揮者は、戦後のケルンのクラシック音楽にとって最大の功労者だったこと(にもかかわらず、その後はケルンのオーケストラと断絶状態にあったこと)がお客さんの激しい反応の大きな要因だと思う。

2:現在は、ライスハレと呼ばれている。

3:木棚照一先生。現早稲田大学教授。当時は立命館大学法学部教授だったが、マックス・プランク外国私法・国際私法研究所客員研究員として、ハンブルクに滞在していた。先生が大学院の国際関係研究科で講義を持っていたこと、さらには木棚先生と関係の深かった友人のKさんの紹介もあって、今回アップするコンサートを聴きがてら、先生を訪問させていただくことにしたのだ。お昼に美味しい魚料理をごちそうになったほか、コンサート終演後、先生の部屋で先生手作りのおにぎりを肴にしばらくお話をうかがうことができたこともよい思い出である。余談だが、党派的にいえば同じ立命館大学の法学部ならO(大…)教授あたりと親しくすべきだったのだろうが、学校運営にまつわる夜郎自大的なあり様が大嫌いで、僕は木棚先生の穏健でジェントルな思考に好感を抱いていた。

*4:先生が席を移動しなかったのは、法を守る守らないの話というよりも、木棚先生の人柄によるものだと思う。

*5:僕がバーバラ・ボニーの熱烈なファンになったのは、このコンサート以降のことである。

*6:欧州音楽日記7をご参照のほど。
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by figarok492na | 2009-08-29 12:29 | 欧州音楽日記

『これから』の改訂稿を完成した(CLACLA日記)

 PCへの打ち込みを完了し、『これから』の改訂稿を完成させた。
 まだまだ不満は残るが、一応あとは微調整をするなどに留めようと思う。
 それにしても、原稿にして30枚分の打ち込みは本当に目に応えた。
 もっとだんどりよく進めていかないと。

 『ブレヒト戯曲全集第5巻』<未来社>を読み進める。
 『ゼチュアンの善人』を読み終えた。
 結構、展開ももちろんだし、ラストの見事さ!
 お芝居たるものこうでなくちゃ。
(って、これは個人的見解ですけどね…)

 ピアノのイェフィム・ブロンフマン、デヴィッド・ジンマン指揮チューリヒ・トーンハレ管弦楽団他の演奏した、ベートーヴェンのピアノ協奏曲全曲(第1番~第5番『皇帝』)と合唱幻想曲<Arte Nova>を聴く。
 こうやってまとめて聴くと、一層ベートーヴェンの創作の進化がわかるような気がする。
 演奏も、CDで愉しむのにぴったりのクリアでスマートな出来だ。

 夕方、友だちから連絡があり、夕飯をとったりしながらあれこれと話をする。
 50歳までの十年間、為すべきことをしっかり為していきたい、為していかなければと、改めて強く思う。

 今日の甘いものは、不二家のエクレア。
 友だちと会っているときに食したもの。
 クリームもたっぷりで、実に美味しうございました。
 ごちそうさま!

 何事も、蓋を開けてみないとわからないものだ。
 と、思うんだけどなあ…。

 明日がいい日でありますように!
 それじゃあ、おやすみなさい。
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by figarok492na | 2009-08-28 23:32 | CLACLA日記

1994年1月20日(欧州音楽日記9)

 ☆プッチーニ:歌劇『トゥーランドット』

  指揮:ファビオ・ルイジ
 管弦楽:デュッセルドルフ交響楽団
  会場:デュッセルドルフ・オペラハウス(ライン・ドイツ・オペラ)


 デュッセルドルフのライン・ドイツ・オペラにファビオ・ルイジが来て『トゥーランドット』を指揮するというので、観に行って来た。

 演出は「なんだかなあ」という代物。
 現実と虚構の世界が悪い意味で混じり合っている。
 冒頭、老プッチーニが突然ティムールに早変わりし、物語が始まる。
 また第3幕では、現実にプッチーニが亡くなって筆の途絶えたところでティムール(プッチーニ)も亡くなり、一瞬間が空いて、楽譜が届けられ、カラフとトゥーランドットが二重唱を歌い出す。
 フィナーレのコーラスも楽譜を見ながら歌うというもので、意図はわからないでもないが…。
 大きなマスクの張りぼてが出たり、人民服の合唱、能面をつけた役人たちと、なんだかいびつな「中国趣味」で興を殺がれた。
 現代の中国の体制、もしくは文化大革命といったものをカリカチュアライズするのであれば、もっと徹底してやればいいわけであって、どうにも中途半端である。

 演奏自体は、ファビオ・ルイジの指揮ということで、多少先入観もあるかもしれないが、今までの2回*1と比較して、オーケストラが断然よかった。
 弦がしなやかに聴こえたし、力強さも充分。音楽として、しっかりまとまっていた。
 まずは、オーケストラということ。
(オペラでオケがよかった! というのもねえ…)
 歌手の中では、文句なしにリューのマッカーシー。美しい声をしているし、歌い方も受けを狙って声を張り上げるのではなく、丁寧に情感を込めて歌っていたように思う。
 あと、ピン、パン、ポンの三人組(ルンゲ、パンプフ、ミュラー)。
 ただのコミカルな役回りではなく嫌な部分も引き受けていたが、シルクハットに丸縁メガネ、鼻の下のひげにステッキと、往年の日本のコメディアンを観るかのようでおかしかった*2。
 声のほうも、よく出てるとは言えないが、その分よく動き回っていた。
 ご苦労様。
 主役の二人は…。
 カラフのシュミットは、最後まで大きな声を出していたが…。あまり好きな声ではない。声に柔らかみがない。
 トゥーランドットのハスも喉に詰めたような歌い方で、気になった。
 それに見栄えも…。嫌な女にはぴったりだが。
 でも、最後の二重唱などは、それらしい雰囲気になってきた。

 プッチーニの音楽が、単に「中国風」を狙ったものではなく、ワーグナーの影響等の受けた新しいオーケストレーションを行ったものだということを実感できた公演だったが、やはり演出・美術のグロテスクさには最後まで「?」マーク。



*1:児玉宏指揮の『フィガロの結婚』(1993年10月24日)と、ウォルター・E.グーガバウアー指揮の『ホフマン物語』(1994年1月2日。ちなみに、これはドイツ語による上演)の2回。

*2:って、今にして思えば、これはグルーチョ・マルクスじゃないのか?
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by figarok492na | 2009-08-28 15:38 | 欧州音楽日記

『旅は自由席』を読み終えた(CLACLA日記)

 宮脇俊三の『旅は自由席』<新潮文庫>を読了した。
 宮脇俊三といえば紀行文、それも鉄道旅行の紀行文の第一人者で、この『旅は自由席』にもそうした鉄道がらみの文章が多数収められているが、個人的には、宮脇さんの人柄や来し方を記した「仕事部屋のうちそと」により強く魅かれた。
 中でも、自らの人生を「拾いもの人生」と言い切る『拾いもの人生』と、現在の自分が「自分」ではない、なすべきことはほかにあるとの思いを吐露し、刻苦勉励をいとわない技術者たちの生き方に尊敬の念と劣等感を抱いていると綴った『自分と出会う』が印象に残る。

 『ブレヒト戯曲全集第5巻』<未来社>を読み進める。
 『ゼチュアンの善人』を読み進めているが、本当に面白いなあ。
 面白い面白い。

 昨夜、ジョージ・ベンジャミン指揮マーラー室内管弦楽団のコンサート(ルツェルン国際音楽祭中の)のライヴ録音を聴く。
 ワーグナーのジークフリート牧歌、ハインツ・ホリガーの独奏によるヴィトマンのオーボエ協奏曲、ベンジャミン自身の『ア・マインド・オブ・ウィンター』、シューマンの交響曲第2番が放送されていたが、もっとも聴き応えがあったのは自作自演か?
 ソプラノのクレア・ブースの独唱が作品によく添ってクリアで美しかったし、オーケストラも機能性に優れていたと思う。
 一方、ワーグナーやシューマンは、解釈には面白さがあったものの、少し肌理が粗いように感じられた。

 詳しくは記さないが、とても切ない夢を観た。

 『これから』のPCへの打ち込みを断続的に進める。

 飯森範親指揮チェコ・フィル室内管弦楽団の演奏したオーケストラ名曲集<ポニー・キャニオン>と、ピアノのエリック・ルサージュを中心とした若手演奏者陣の演奏したプーランクの室内楽曲集<RCA>を聴く。
 飯森さんのアルバムでは、チェコ・フィルの管楽器奏者(フルート、ホルン)の魅力がはっきりと伝わる、ドビュッシーの牧神の午後への前奏曲が一押し。
 あと、カバレフスキーの組曲『道化師』のプロローグを聴くと、いつもかしまし娘のテーマ曲を思い出してしまう。
 プーランクのほうは、「とやかく言わずに聴いてくれ!」と口にしたくなるようなCD。
 大推薦だ。

 お昼、ある建材会社が何度も間違い電話(ファックス)をかけてくる。
 うっとうしいったらありゃしない!

 『これから』の打ち込み等で忙しく、昨日に続いて夕飯用の買い物に外出しただけ。
 まあ、仕方ない。

 夕飯後も、『これから』の打ち込みを断続的に進める。
 間奏曲までの打ち込みを終える。
 原稿用紙にして、24枚分程度か。

 ネットラジオで、フォルテピアノのロナルド・ブラウティハムの演奏した、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第31番のライヴ録音を聴く。

 どんよりとした感じが少ししたものの、概していいお天気の一日だった。
 日中はむわっとして、あまり快ならず。

 きょうと市民しんぶん9月号を目にすると、またぞろ門川大作市長の写真が目立つ形で掲載されている。
 京都市発行の新聞だから市長の写真が掲載されるのは当然という建前も、次の選挙を見据えた作戦という本音もわからないわけじゃないけどさあ、KBS京都の『桂都丸のサークルタウン』に出しゃばったりもしてて、なあんかいやな感じなんだよねえ。
 選挙前に関係者が彼の本を配ってたかなんかしたような人間だから、たいていのことは、まあ、そういう人間ならって感じもするけど。
 少なくとも、「水族館を建設する前に、他にやることはいっぱいあるだろう」と面罵してはやりたくなる。
 そして、宮脇俊三も引用している『史記』の中の、「桃李言わざれど下自ずから蹊をなす」という言葉で教え諭してやりたくもなる。

 今日も、甘いものは食さず。

 明日がいい日でありますように!
 それじゃあ、おやすみなさい。
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by figarok492na | 2009-08-27 22:16 | CLACLA日記

1994年1月19日(欧州音楽日記8)

 ☆グヮルネリ・カルテット ケルン公演

  会場:ケルン・フィルハーモニー


 弦楽4重奏でもたまには聴いてみようかとフィルハーモニーへ。
 グヮルネリ・カルテットは、以前何かで名前を聴いたことがある程度*1。
 オケ、オペラ、指揮者以外のクラシック音楽に関する知識とコンサート経験の少なさに少々情けなくなる(弦楽4重奏を聴くのは、二度目!)。

 曲目は、アリアーガの第1番、ベートーヴェンの第11番「セリオーソ」、ラヴェルの三曲。
 お客さんは、オケのときに比べ実に少ない入りだが、その分音楽好きや、自分で演奏する熱心な学生が集まっていたよう。

 アリアーガの第1番*2は、端整な作品。
 音楽としてのしっかりとしたスタイルを備えているし、メロディーも美しい。
 「スペインのモーツァルト」と呼ばれる彼の作品は、日本でももっと演奏されて良いかもしれない。

 次は、ベートーヴェンの第11番「セリオーソ」。
 非常に激しい曲調で第1楽章が始まった。
 この激しさは、そのままフィナーレまで続いた。
 アリアーガの曲が古典的な調和に近い作風とすれば、ベートーヴェンはそこから一歩足を進めようとする作品。
 和音の使い方等、ときとして「不安定さ」を感じる音楽だったが、演奏は病的不安定にはならなかった。

 やっぱり来て良かったと思いつつ、休憩は終わり。
 後半のラヴェル。
 実は、オケの曲はまだよいとして、ラヴェルやドビュッシーをはじめとするフランスの室内楽作品は…*3。
 という先入観を持っていたが、この作品・演奏を聴いてそれがただの偏見だということを思い知らされた。
 第1楽章は、暖かみのあるメロディーが魅力的。ファースト・ヴァイオリンの音の細さがほんの少しだけ気になるが、この団体の弦をたっぷりと鳴らす演奏スタイルには合っている。
 第2楽章は、ピッツィカート技法が印象的。ピッツィカートの個々の部分でテンポなどに奏者の違いはあったが、合奏力はなかなかのもの。
 第3楽章の物憂げな雰囲気、フィナーレも各々充分に愉しめた。

 会場の熱心な拍手に応え、アンコールは2曲。
 誰かの作品のアダージョとハイドンのフィナーレ。
 アダージョでは、各々の楽器の旋律が柔らかく重なることに心地よい想いをし、ハイドンのフィナーレはコンサートの最後を飾るに相応しい軽快な作品だった。

 技術的には、年齢のこともあって最高度、完璧というわけにはいかないだろうが、長年積み重ねてきた経験から生み出される合奏力、テンポのとり方、音の鳴らし方にこの団体の年輪の深さが感じられ好感が持てた。
 また、音楽というものが、単に上手に鳴らされれば良いのではなく、まとまりと重なり合うことが大切だということを実感できた。
 「行って良かった」
 それが、最大の感想だ。



*1:グヮルネリ・カルテットがアメリカを代表する弦楽4重奏団であることをしっかり認識できたのは、JUGIA四条店でクラシック担当のアルバイトをしてからのことである。

*2:残念ながら今は手元にないが、グヮルネリ・カルテットの演奏したアリアーガの弦楽4重奏曲第1番~第3番のCD<PHILIPS>を、僕は一時期愛聴していた。なお、そのCDは、このコンサートから約1年のちの1995年2月に録音されている。

*3:上述、JEUGIA四条店での経験によって、一転、フランスの室内楽作品に全く抵抗がなくなった。特に、フォーレやドビュッシー、ラヴェルはもちろんのこと、プーランクやミヨーの室内楽作品も大好きである。
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by figarok492na | 2009-08-27 15:13 | 欧州音楽日記