「ほっ」と。キャンペーン

一日一枚(趣旨説明)

 この『一日一枚』では、僕が一日に聴いたCDの中から、これはと思うものを選んで感想をアップしていこうと考えているのだが、あいにく昨日はラブログにCDレビューをアップした、ジョヴァンニ・アントニーニ指揮バーゼル室内管弦楽団によるベートーヴェンの交響曲第1番と第2番のSACD<エームス・レーベル>しか聴いていない。
 という訳で、今回は趣旨説明のみということで、ご勘弁のほどを。
[PR]
# by figarok492na | 2005-11-17 00:51 | 一日一枚

バスに乗り遅れろ 1

 京都は、ブッシュの●●息子の入洛で、戒厳令下そのもののうっとうしさだ。

 いや、この何とも言えないうっとうしさは、小泉純一郎が政権を担って以来、加速化し持続されているものである。
 だが、こうした状況を、単純にファッショ化と断定することは、かえって状況の根幹にあるものを隠蔽する手伝いをするだけに過ぎないから、僕は慎みたいと思う。
 ただ、少なくとも、こうした状況を是とし、流されるままに流されたいとも思わない。

 グラムシの「陣地戦」論を、僕はとうていしっかりと理解できている人間ではないけれど、現状がある方向に進んでいる中で、ある時は踏み止まり、ある時はゆっくりと歩いていくことで、事態の真相を見極め、その真相を批判し、その真相の変革を促す積極的な方法を提起した考え方だとは思っている。
 そうした彼のひそみに倣えば、演劇という行為もまた、日々の状況の中に陣地を築く有効な手段、少なくともそうした可能性を秘めた方法の一つであるだろう。

 むろん、演劇は「戦略」ではない。
 まずは、何のために演劇というものがあるのかということ、創り手の側だけでなく、観る側の立場に立ち、さらには創り手と観る側の「対話」という意味合いについて考えることを忘れてはなるまい。
 誰にとってもつまらない芝居など、はなから必要ないのである。
 アジテーションやシュプレヒコールの代用物であるお芝居は、ただただうっとうしいだけだ。

 けれど、創り手の側が現在の諸々の状況に不満や疑問を感じ、それを何とかしたいと考えるのであれば、当然観る側の存在を配慮した上で、それぞれのよしとするやり方で、舞台を創り続ければいい。
 そうした広い意味での「政治性」は、これからますます必要とされるだろう。
(演劇という行為そのものが、広い意味での「政治性」を含んでいることを、創り手の側はもっと自覚する必要があるのではないか?)
[PR]
# by figarok492na | 2005-11-16 13:10 | バスに乗り遅れろ

バスに乗り遅れろ 2

 ところで、京都の演劇界を考えてみた場合、広い意味での「政治性」が欠落しつつある反面、狭い意味での「政治性」、と言うよりも、自らの利権や権威を維持強化するという意味での「政治性」が、どんどん蔓延しているように僕には思われてならない。
 ことに、太田省吾の入洛以降、その傾向は一挙に強まっているのではないか。

 太田省吾と転形劇場の果たした役割は小さくない。
 特に、『小町風伝』や一連の沈黙劇は、高度経済成長期以降の急速な社会的変化へのアンチテーゼとして、演劇界に大きな影響を与えた。
 彼らの業績は、今後も高く評価され続けてしかるべきだと、僕も思う。

 しかしながら、今の太田省吾はかつての太田省吾ではない。
 少なくとも、扇田昭彦のインタビューに対して誠実に答えようとするあまり、疲れきってしまった彼はいない*。
(*扇田昭彦『日本の現代演劇』<岩波新書>第一章の5「普通の人々の形而上学」参照)
 例えば、京都の劇場や芝居小屋で、自らの身内の公演に接してにやけ顔を呈している太田省吾と、今もなお萩本欽一で在り続けようとする萩本欽一とを比べれば、その違いはあまりにも歴然としているだろう。
 今あるのは、かつての太田省吾の残骸だけだ。
[PR]
# by figarok492na | 2005-11-16 13:05 | バスに乗り遅れろ

バスに乗り遅れろ 3

 もちろん、生きている限り、人は老いていく。
 かつてと同じだけの芸術的水準を一人の表現者に求め続けることは、とても残酷であり、まずもって不可能なことだ。
 けれど、その表現者が現役の表現者として創作活動を続けるというのであれば、僕らは、彼彼女らが創り上げた結果に対し、真摯に向き合わなければならない。
 そこに、同情は、ましてやおもねりは不要である。
 
 だからこそ僕は、鈴木忠志の悲惨極まりない『リア王』を老いさらばえた彼自身の姿そのものであると評し、もはや銃口のような鋭さを失った竹内銃一郎には、竹内従位置郎と改名してはどうかと促すのだ。

 当然このことは、太田省吾についても当てはまる。
 そして本来ならば、彼の身近にあるものこそが、最も彼に対して厳しくあらねばならないはずだ。
(その分、かつての太田省吾の業績を賞賛し、実際に舞台化する作業を続けることも忘れてはならないが)

 だが、現状はどうか。
 現在、彼の周囲に位置する人物、松田正隆さんにせよ、森山直人にせよ、太田省吾を諌めるどころか、意識的か無意識的かは置くとして、彼に阿諛迎合する結果となっているではないか。
(松田さんの作・演出によるマレビトの会『蜻蛉』公演における、太田省吾を煮崩れさせたような役者陣の所作を思い起こせばいい。あれが追従でなく、芸術的影響の産物だと松田さんが言い切るのだとすれば、とんだトラジコメディである)
[PR]
# by figarok492na | 2005-11-16 13:00 | バスに乗り遅れろ

バスに乗り遅れろ 4

 太田耕人同様、舞台の向こう側に存在するものを観ることのできない(少なくとも、そうしようとしない)森山直人は論外として、松田正隆さんのこの一、二年の堕落ぶりには、怒りを通り越して哀れみすら、僕は覚える。

 ただし、すでにラブログ・CLACLA日記でも論じてきたように、松田さんが若い世代の役者陣とともに、これまで自らが積み重ねてきたあれやこれやを一旦さらにして、実験的な舞台を創ろうとする意欲そのものには、僕は反対ではなかった。

 けれど、そうした活動を守ろうとするあまりか、または発展させようとするあまりか、松田さんが怪しげな行動をとり始めたことに関しては、沙汰の限りと評する他ないのである。

 これまで僕はそうした行動、例えば、新KYOTO演劇大賞にまつわるあれこれ(前回の京都演劇大賞で審査員を務めておきながら、平然と次の大賞にはノミネートされるといった)についてを、あくまでも松田さんの無邪気さと無頓着さの表れとのみ、好意的に解釈してきた。
 だからこそ、マレビトの会の制作である杉山準さんの批判精神の欠落に失望し、審査員の側にある太田耕人や森山直人の卑劣漢ぶりを攻撃したのだ。

 だが、僕は自らの解釈があまりに甘かったことを、今では痛感している。
 それは、彼が7月17日に京都芸術センターで開催された「京都芸術センターをよりよくするための公開会議」で、現在京都芸術センターの演劇関係の責任者的地位にある太田耕人を弁護するような態度を露骨なほどに示したからだ。
 僕はその時、松田正隆という表現者は、自覚的に自己防衛に走っている、と思ったのである。

 もちろん、自らの表現活動を守るためには、表現者は時に狡猾な手段をとらなければならないことがあることを、僕は否定しない。
 ましてや、自分自身の表現活動が転換点を迎え、新たな段階を目指している時ならば、なおさらだ。

 しかし、いくら実験精神を発揮しようと、また社会的諸状況を批判するような内容の作品であろうと、それがあまりにも露骨な迎合と自己防衛に支えられたものであったとすれば、それは口先だけの虚偽と、心ある者には映るのではないか。

 松田さんが、迎合も自己防衛も一切ないと言うのであれば、一つ質問したいことがある。
 どうして牛尾千聖さんはマレビトの会の『王女A』ではなく、太田省吾の作品に出演することになったのか。
 あれは、牛尾さんが自発的に松田さんを捨てて、太田省吾に走ったとでも言うのか。
 もし牛尾さんが太田省吾の「意向」によってマレビトの会の出演を断念させられたのだとしたら、これほど奇怪なこともない。
 自らがこれはと思った役者をいとも簡単に手放せるということは、全ての役者に対しても、松田さんは同様の態度をとるということだ。
 そのような無責任な定見で、まだまだ将来の定まらない役者陣を自らの実験に巻き込むなと、僕は声を大にして言いたい。
 松田さんが、現在の迎合や自己防衛から脱却しないかぎり、即刻マレビトの会は解散すべきだろう。
[PR]
# by figarok492na | 2005-11-16 12:55 | バスに乗り遅れろ

バスに乗り遅れろ 5

 京都芸術センターの舞台芸術賞をはじめとする、芸術的シンパシーや芸術的相互理解を隠れ蓑とした、太田省吾、松田正隆さん、森山直人、太田耕人らの癒着構造(ありていにいえば、京都造形芸術大学に関連する人間が京都演劇界の「政治的」地位を占める構造)の形成は、青年団から独立した三浦基が京都に拠点を移したことと、同じく青年団の田嶋結菜さんが京都芸術センターの演劇担当のコーディネーターに就任したことで、一つの頂点に達したと、僕は思う。

 CLACLA日記ではいくぶん辛らつに評したものの、三浦基の演劇的な存在意義に関しては、僕も大きく認めるところだ。
 特に、チェーホフや鈴江俊郎さん、松田正隆さんの作品において観せた、作品構造そのものに対する批判的・批評的演出は、演劇に通じる者に小さからぬ刺激と示唆を与えたと言ってよい。
 これまで当為として行われてきた舞台演出への「アンチテーゼ」としての三浦基の存在は、もっと積極的に評価されるべきだろうし、彼の京都演劇界への本格的進出も、その点からは、喜ぶべきものと僕は考える。

 しかし、あくまでも「アンチテーゼ」は「アンチテーゼ」でしかない。
 「アンチテーゼ」である者が、芸術的にばかりか、「政治的」にも主たる地位を占めようとすれば、そこには自ずと無理が生じる。
 結局、「アンチテーゼ」であった者は、主たる地位を占める代わりに、本来彼彼女らが持っていた、批判精神や批評性*を失うという大きな代償を払うことになるだろう。
 つまり、彼彼女らは、現実的な地位と引き換えに、表現者としての存在意義そのものを失うのだ。
(*テキストに対するそればかりでなく、広義の社会全般に対するそれもである)

 だが、こうした危険は、本来志しの高い表現者であれば、僕などが指摘せずとも、はじめから充分承知しているはずである。
 それがわかっていないように見える段階で、三浦基の志しは、あまり高いものではないと、僕には判断せざるをえない。

 実際、CLACLA日記にも記したことだが、京都芸術センターの玄関口で、我を忘れて女性を叱責する三浦さんの姿には、公私の場所のけじめもつかない*、彼の人格的な稚拙さ、それが言い過ぎならば、コモンセンスの欠落を感じてしまうし、それより何より、「京都芸術センターをよりよくするための公開会議」における、
>(京都芸術センターの使用者の選択等に関する)情報をオープンにする必要はない<
といった趣旨の三浦さんの発言には、たとえそれが芸術的な理由から発したものであると言われたにせよ、こちらの顔から火が出るような気恥ずかしさと、彼の独善性、志しの低さを感じてしまうのである。
(*京都芸術センターは、演劇関係者の専有物ではない。こまばアゴラ劇場などとは違うのだ)

 むろん、表現者の人格(それも一面的な)と表現された結果を同列に並べることはアンフェアでもあるが、一方で、表現された結果は、表現者の思想、思考、理想、理念、人格、識見の象徴であることもまた事実であろう。
 その観点からも、三浦基が何ゆえあのような形での表現活動しかとりえないかが明らかになってくるのではないか。
 ここでは、一つ一つの作品について詳細に触れることはしないけれど、彼が対象とするテキストから「ドラマ」を描き出そうとしないのは、あえて描き出すことを拒否しているのではなく、彼自身「ドラマ」を描き出すことができないからだと、僕には思えてならない。

 いずれにしても、三浦基が現在の状態に固執するかぎり、彼の表現者としてのこれまで以上の成果は、あまり望めないのであるまいか。
 それは、彼本人にとっても、彼とともに表現活動を行う人たちにとっても、さらには京都演劇界にとっても、不幸な出来事となる。
 それが僕には、本当に心配でたまらない。
[PR]
# by figarok492na | 2005-11-16 12:50 | バスに乗り遅れろ

バスに乗り遅れろ 6

 とはいえ、太田省吾や松田正隆さん、三浦基といった人たちは、少なくとも表現者として、これまで一定以上の水準の成果を上げてきた。
 そのことは、自己の好悪の情は別にして、しっかりと評価しておかなければならないと僕は思う。

 だが、彼らが芸術的な潮流としてばかりではなく、「政治的」な地位(言い換えれば、京都芸術センターの使用や各種コンクールにおけるノミネートといった利権)をも独占するという状態は、京都演劇界にとっては悲劇以外の何物でもない。
 バスに乗り遅れるな、とばかり、太田省吾を中心としたグループに取り入ろうとする表現者や劇団は必ず出現するだろうし、実際、その徴候はすでに明確に表れていると、僕には感じられる。
(個々の表現者が如何なる思想信条を持っていようとも、それは明らかに現在の日本社会の縮図そのものだ)

 もちろん、芸術的節操のかけらもない凡百のエピゴーネンたちがぶざまな舞台を創り出し、結果として自滅していくこと自体には、何の感慨も起こりはしない。
 また、そうした舞台を高く評価して、森山直人や太田耕人の批評家としての命脈が尽きたとしたら、僕は喜びの凱歌を上げるだろう。

 ただ、そうした全体的な潮流が、演劇関係者とそうでない一般の人たちとの乖離を促進し、京都演劇界を一層孤立させる結果となることには、僕は我慢がならない。
 特に、僕自身が、創作者としても一個の人格としても敬意を表し、親愛の情を抱いている多くの人たちに悪影響をおよぼすことを黙認する訳にはいかない。
 だからこそ、独断のそしりを受けようとも、あえてこのような文章を執筆したのである。
[PR]
# by figarok492na | 2005-11-16 12:45 | バスに乗り遅れろ

バスに乗り遅れろ 7

 杉山準さん、二口大学さん。
 どうかあなたがたは、バスのステップから足を下ろして下さい。
 あなたがたは、もともとバスに乗る必要などないのだから。

 田辺剛さん、山口茜さん、ごまのはえ君。
 どうかあなたがたは、バスに乗ろうとはしないで下さい。
 あなたがたは、そんなバスに乗らずとも、あなたがたの方法で、もっともっと先に進んで行くことができるのだから。

 ハラダリャン。
 どうか君は、バスのことなど考えないで下さい。
 君の進むべき道は、全然別のところにあるのだから。

 バスの存在をおかしいと思い、バスになんか乗るものかと歯がみしている皆さん。
 どうかあなたがたは、その場に踏み止まって下さい。
 少なくとも僕が、そんなあなたがたの姿をしっかり観続けていきますから。

 そして、太田さん、松田さん、三浦さん。
 どうかお願いですから、あなたがたはバスを降りて下さい。
 それがあなたがた自身のためでもあるのだから。
[PR]
# by figarok492na | 2005-11-16 12:44 | バスに乗り遅れろ

バスに乗り遅れろ 8

 それにしても、かつて苦労の末にリムジンバスに乗り込んだ、劇団四季の浅利慶太は、今頃になって木炭バスに乗り急ごうとする京都演劇界の面々を見て、どのような感情を抱くのだろうか。
 ほら見たことかと嘲笑うだろうか。
 かわいそうだと哀れむだろうか。
 いや、たぶんそのどちらでもないだろう。
 人が一方向へと押し流されることの恐ろしさを識った彼は、京都演劇界のことなど範疇の外と、現在の日本の諸状況を睨みながら、新しい乗り物をさがしているのではないか。

 いずれにしても、どんなバスにも乗り急ぐな。
 バスには、乗り遅れろ。
[PR]
# by figarok492na | 2005-11-16 12:43 | バスに乗り遅れろ

11月14日の補足

 夜遅くなって冷え込みが厳しい。
 風邪には要注意だ。

 北大路の北文化会館まで、京都市立芸術大学の学外コンサート「2005年 モーツァルトへの旅 第二夜 モーツァルトのイタリア〜マンハイム〜パリ」を聴きに行く。
 指揮者の本多優之さんの他、鴨川左岸の本保弘人さんもお誘いする。
 詳しい話は省略するけれど、ニコラウス・アーノクールが強調していた「フランス革命以降の音楽学校の弊害」が如実に表れていたと思う。
 ただ、プログラムのメイン、モーツァルトの交響曲第31番「パリ」があまりにもうるさかったことと、司会進行の女性が、ロンド楽章を「ロンドン」楽章と言い間違えしたことだけは指摘しておきたい。

 例えば、現状を変革するという意味での「政治性」は必要だが、自らの利権を維持強化するための「政治性」は、芸術には不要だ。
 率直に言って、京都演劇界では後者の「政治性」ばかりが蔓延しつつある。
 堕落の一語だ。

 さてと、そろそろ寝床に潜り込もうと思います。
 今日がいい日でありますように!
 それじゃあ、お休みなさい。
[PR]
# by figarok492na | 2005-11-15 02:09 | CLACLA日記

新しく開設しました

 初めまして。
 DIONがあまりにも悲惨な状況のため、こちらに避難所を設けることにしました。
 今後とも、よろしくお願い申し上げます。
[PR]
# by figarok492na | 2005-11-15 01:30 | その他