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tabula=rasa no.5『無題 ~強方向もしくは問答』

☆tabula=rasa no.5『無題2 ~強方向もしくは問答』


 ミロス・フォアマン監督の『アマデウス』では描かれていなかったものの、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトのスカトロジー的言動は知る人ぞ知るものだ。
 ただし、それは、家族や親友たちへの親密さ、愛情の証でもあって、彼の長調の音楽がそうであるように、非常に陽性で快活である。

 一方、tabula=rasaのno.5『無題2 ~強方向もしくは問答』(前田愛美さんテキスト、高田ひとし君構成・演出)における前田さんのそれはどうかと考えると、明らかにモーツァルトのものとは対極にあたる、日々彼女の内面で醸成され沸騰された感情の噴出であり排出だと評することができるのではないだろうか。
 むろん、当然そこに、かつてC.T.T.でとり上げたサラ・ケインをはじめとした他者の影響や、形而上的ないし形而下的な思考枠組の存在を指摘することも可能だが、基本となるものは(出演者としての彼女が最終盤で観せたような)知性ではコントロールしきれない爆発的な感情表現といっていいだろう。
 それはまるで、熟しかけたトマトを自分自身が映った鏡目がけてぶつけているように、僕には感じられる。

 そして、そうやってぶつけられたトマトを拾い集め、そこに塩や香辛料を加えてトマトジュースにつくり直し、客席に目がけてぶちまける、のではなく、コップに注いで飲むように強く勧めるのが高田君の演出であると続けることができるかもしれない。
 高田君の演出には、倣いながら慣れるといった趣きがあって、回を重ねるごとに他者からの影響の咀嚼の仕方もこなれているように感じるのだけれど、今回の公演でも、そうした高田君の変化がよく示されていたように思う。
 ただ、その分、前田さんのテキストと高田君の演出との間にある距離、齟齬が少なからず垣間見えたことも事実で、その距離や齟齬を埋め切ってしまうのか、逆にそれとももっとその存在を明確に示し切ってしまうのかという点は、対前田さんのテキストということにとどまらず、高田君の演出・表現活動にとって今後の重要な課題であるように、僕には思われた。
(前田さんと高田君とで共通する部分があることは言うまでもないし、ラスト近くでの「激しい」表現には心動かされるものがあったのだけれど)

 演者陣は、単に技術的な側面ばかりではなく、舞台での存在感、身体性という意味で、テキストや演出とのずれを感じる部分もありはしたが(前半など)、舞台上における熱意や誠実さはやはり充分に評価されてしかるべきだろう。

 いずれにしても、継続することによってさらに明らかになってくることがあるはずだと僕は思う。
 次回の公演にも期待したい。
by figarok492na | 2011-04-24 22:37 | 観劇記録
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