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個と個による生活の叙事詩 HOME『わたしのあいだ』

☆HOME『わたしのあいだ』

 小堀結香、染谷有紀、福田きみどり(ドキドキぼーいず)、森陽平
(2013年10月23日19時過ぎ開演/養生市営住宅11棟集会室)


 京都国際舞台芸術祭(KEX)のフリンジ企画「使えるプログラム」の支援事業の一つ、HOMEの『わたしのあいだ』を観た。
 なお、この『わたしのあいだ』は、昨年Factory Kyotoで上演された作品を今回のプログラム、及び上演会場の養生市営住宅にあわせて仕立て直したものである。
(上述の出演者も前回と同じだが、役回りが変わったり、出演者も「わたし」と「あなた」の二人のほかに、コロス的なもう一人が加わっている)

 ある家に住む「わたし」と、なんらかの理由でそこへとやって来た「あなた」の関係(谷川俊太郎や中原中也、永瀬清子らの文章の引用も含むモノローグの積み重ね等)を通して、「個」人と「個」人が根幹において束ねられることのない違いを持っていること、「個」人と「個」人の距離感のあり様、そしてそうした諸々を踏まえた上で生活していくということ、断絶することなく生きていくということへの思索のきっかけ、思考の時限爆弾がふんだんに施された内容となっている。
 観る者に強い感興や激しい興奮、大きな心の動きを与えるような展開を目指していないことは、フライヤーの言葉(宣言)からも明白で、細やかで透明感はありながらも、ウェットでもリリカルでもない叙事詩的な作品世界が造り上げられていた。

 かえすがえすも惜しまれるのは、天候のせいで本来の12棟の中庭ではなく11棟の集会室で今夜の上演が行われたことだ。
 確かに、家の中(部屋の中)を舞台にした作品だから、室内で上演されること自体おかしいことではないのだけれど(実際、マイクを使用したナレーターの森君はもちろんのこと、三人の演者の言葉・テキストも聴きとりやすかった)、場所がつき過ぎるというか、室内であることが当為過ぎて、一見淡々とした展開だけにインティメートな雰囲気や「家具の演劇」的要素、筋の起伏のなさが勝ってしまったように感じられなくもない。
 それより何より、そもそも中庭(屋外)での上演であるからこその作品の結構意匠(ギリシャ古典劇やブレヒト劇の援用)と、問題提起を多分にはらんでアクチュアリティに満ちたテキストだっただけに、それらの仕掛けが如何に効果を発揮するか(もしくはそうでないか)を確認することができなかったのは、本当に残念でならない。

 室内ということで、出演者陣の細部の傷がかえって目立った形にもなったが、過剰な演劇調ではない彼女彼らの発語(それは、声優を使わないジブリ作品の吹き替えにも通じる)と、作品そのものにつながる演者間の距離感関係性には好感を抱いた。

 いずれにしても、今改めて上演されるに相応しい作品だったと思う。
by figarok492na | 2013-10-24 01:00 | 観劇記録
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