伏線を張ることは、創作者にとって、とても大切な作業の一つである。
個人の感情の変化であれ、社会的に大きな事件事故であれ、それを読者に納得させるためには、それに相応しい伏線、鍵となる何かが必要とされる。
少なくとも、物語のおしまいになって、とってつけたような説明台詞を重ねることだけは、避けなければと思う。
また、そうした作品の主筋以外でも、張りに張られた伏線が、ラストでぱっと解き明かされ結びつく心地よさは格別だろう。
むろん、主筋を忘れて、脇道に迷い込むような真似は忌むべきだが、遊びの伏線一つない作品は、残念ながら息苦しくって面白味に欠ける。
(一番度し難いのは、伏線らしきものを見せておきながら、ほったらかしのままで作品が終わってしまうことだ。読み手に不満を残すという点だけで、そういう作品は傑作・名作とは呼べない)
そういえば、現実社会でも、事ここに到るまでにはきちんと伏線が張ってあったんだ、と感じることがある。
また、今後の展開がすぐに読めてしまうような、ばればれの伏線を目の前にすることもある。
実は、つい最近も身近でそんなことがあったのだけれど、そんな間抜けな伏線にはだまされたくないし、そんな間抜けな伏線など張りたくもないと痛感した。
張るなら、しっかり張らなくちゃ!